ブログのすすめ。言葉とは嘘をつくための道具である

論理武装という言葉がある。論理武装とは嘘を身につけることであると思う。弱い私は論理武装をしないといけないと思いこんで、とにかく片っ端から本を読んでいたことがある。弱くなければ武装する必要もない。言葉なんて言う道具に頼らないのが本来もっともマシな姿なのだ。

しかし、論理武装なんていうでっち上げをしないといけないと思っていた。その時点で、もはやそれは弱さを露呈しているに過ぎず、なんというか昔を振り返ると恥ずかしい。そればかりか、論理武装とはそもそも嘘を捏造することだ。嘘はそもそも脆いものだ。

さて、ここで言う論理とは、他人が群がっても覆せぬものであり、それをうず高く積み上げて自分を守ろうとする防護壁。もしくは、他人の痛いところを突いて相手を挫くための鉄槍。これらの論理は常に後についてくるものだ、だから嘘。もともと自分が信じる論理が前提で、その結果として自分を守るものになったわけではなく、自分には無いものをどっからひっぱってきて、さも自分であったかのように仕立て上げている装飾品である。

それらはどこまで言っても自分のものではない、嘘の何ものかである。素のままの自分なんてそこにはない。そこらへんの寄せ集めを、自分自身にシールのように貼り付けていくうちに、自分が作られていくものだと信じているのならば、そうしていればいいと思う。そんなわけで、言葉とは嘘をつく道具だと気づいてからというもの、それをすっかり捨て去ってしまうことが、大切だと結論づけて、本を読むこともしゃべることも嫌になってしまったことがある。

ただしばらくして、そうそう便利な嘘をつく道具=言葉を捨てることもできず、また便利な他人の言葉を自分に取り入れては言葉を吐き出していくことを繰り返している。人間なんて本来的にそうしていていることぐらいしか、できないのではないか。読んで書いて、を繰り返す。インターネットにできる嘘の山。ブログスフィア。なんの結論もない戯言でした。

徒然草2.0
スポンサーリンク
シェアする
gomiryoをフォローする
ごみぶろぐ

コメント

タイトルとURLをコピーしました