クォーラも結局は2ちゃん化すると思う、というかすでにしている。そもそも「人の頭の中には2ちゃんねるが詰まっている」すべての情報はシェアされセンセーショナルな共同幻想が参加する物の頭の中に同じ用に描かれている。
例えば、クォーラの哲学カテは面白いが、風刺的だ。刺激が強い。文明批判の色が強く極めて改革的な思想が散りばめられている。体制にとって本当に不利な情報は消されて、ある旧体制を批判する情報がセンセーショナルに伝えられる、という傾向があるように思える。
例えば「ナチスを肯定する論」はありえないとかが代表例。
日本軍が爆撃した上海南駅で撮影された赤ん坊の写真「上海南駅の赤ん坊」も偽装ではないか?と言われているが、真偽の妥当性はほおっておかれ写真だけが拡散されるに決まっている。というか実際そうなっている。写真にせよ文章にせよ、それが果たして真なのか常に疑ってかかる必要があることは変わらない。
科学、歴史、医療、その他の統計的な確からしさは、複数の資料によって計られなければならず、ほんの少しの反証で覆るものではないということを知っておくことも大切だというふうにも思う。
これは各学問の自称の捉え方によってはいくらか体系的に分かることだが、共通言語でどう語ればいいのかわかりかねる(誰か教えて)欲しい。
今この記事を書いているのは、コロナウイルス拡散によって医療崩壊を防ぐために緊急事態宣言下にある都内である。今より以前からあった「マスクをつける意味がない」の信憑性は、疑わしいといわれている。だからだろうか。なぜかマスクがエチケットになってマスクをしていないと、飲食店などに入ることも許されていない。マスクをつけていない人は店に入るな!(実際はもっとやんわりとした言い方だが)と張り紙がある。これは定かではないが、マスクをつけることは正しいと言われている。一方で、マスクが意味がないと主張する医療従事者もいる。なにがルールの基準になるかなんて、わりといい加減なんだということをコロナ禍の日本で感じた。
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