もし、自分が山林を持ったら、見知らぬ人がそこにいても「自分がここの所有者だ」とバラすのは最終手段だと、さっき決めた。俺の土地だ!というのはなんだか気恥ずかしい。実際に庭付きの一軒家に住んでいた時も「ボールが入ったからとらせて」と言ってくる子供がいても、勝手にとったらいいのにという感じである。ひとこと言うのがマナーだし、人が居ないと思って庭をみて見知らぬひとがいたらギョッとするけど、基本的に勝手にしたらと思う気持ちは変わらない。
話を山林に戻すと…本来、山林には、所有者なんていない。見知らぬ男が人の山林で筍を掘っていたら「やめてください」とひとこと言うだろう。ただし、立ち入ってブラブラしているだけなら、どこから来て何をしているかは尋ねるだろうけど、いちいち出ていってくださいとは言わないと思う。原状回復するのに時間がかかることは、目くじらをたてて指摘をせざるを得ないが、不法侵入者の到来にたいしてなるべく穏便に済ませたいという思いがある。
いいや、穏便と言うより消極的に済ませたいと言ったほうが適切かもしれないがw
さすがに田畑をつくって、そこへ人間にせよ野生動物にせよ、害をなす侵略者がいたら戦わなければならない。
この点、マインクラフトのようにうまくいかないのが現実世界の辛いところ。マイクラだったら人参を引っこ抜いても後で植え直しておけば畑の所有者は怒らない。結局、いざこざが起こるのは原状回復できない破壊が行われたときになる。
そうして脳内のシミュレーションをしてみると、土地を守るということがどういうことかとか、野生動物を追い払うとはどういうことかとか、そうやって村ができ寄り合いができて、民族や文化とはなにかを考えるようになって、やがて王族とか貴族とかいう人達が現れてきて、やがて近代的な国家ができるという歴史的な流れを理解することができる。
本来的に戦争とは土地の取り合いだったのだ。
自分の土地という所有権の延長に国家があると腑に落ちる。自分の侵されたくないという縄張りの強さを自覚する。人間というか動物の自然な欲求だと思われる。自分の場所と決めたところの侵入者の狼藉を人は絶対に許さない。この点は、私が考えている甘っちょろい自然観と対立してしまう。
風の谷のナウシカに森の民(森の人だったか?)というのが登場する。たしか彼等は腐海の中で生きているが、それは腐海に侵入者がいなかったから築けたのだろう。なんでか森の民はとても魅力的なそんざいだ。ああして、ひっそり暮らしていければいいのだが、侵略者と呼ばれる後から来た人たちがいたら、そこで戦争をしなければならない。
ケルト人とゲルマン人が死闘を繰り返さざるを得なかったのはいたしかなかったのかもしれない。ケルト人やゲルマン人は戦争を繰り返していたイメージだが、もともとは両者とも遊牧民で文化的な交流があったという。以前は仲が良かったのに、滅ぼし合うことにつながったとしたら、とても残念だ。そうはお互いなりたくないと思う人と交流したいものである。
というわけで、まだ所有してもいない山林に、異邦人が訪れるなんてことはまずないのに、民族戦争まで飛躍するのは、我ながら思考実験をやりすぎている感はいなめません(汗)。
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