小説家になるには、売れる作品を作り続けるセンスが必要なんではないか?と漠然と捉えていたのだが、この本を読んでそのへんのもやもやしているところがはっきりした。
私は別に小説家になりたいわけではない(いや、なれたらなりたいくらいの気持ちが過去にまったく無かったわけではないが、日夜不断の努力をして人生を文章を書くことにかけている人がいるこの世の中においては、まったくと言っていいほど努力をしているとは言えない)だから、小説家になりたい人のスタンスにあまり興味はほぼないのだが、日がなブログで文章をつらつらと書いている以上、人に読まれる文章なるものを生産したい欲が少しぐらいは出てくる。
やはり文章を書くのは、下手よりも上手い方がいいに決まっている。
だから、たまに文章読本的なヤツを手にとって、どうやったら文章が上手くなるかを研究することがある。
「研究なんて言葉は使うな、本当に物事を研究している人に失礼だろう」などと言われることもあるが。。
だが、文章を書くことのにわか研究員意外のなんだろう? 研究意外に適当な言葉は見当たらないよな。
まあそれはさておき、小説というジャンルに限ってしまえば、誰か特定の人に評価されるという必要性すらないように思える。
だって、小説が面白いかつまらないかなんて、読者が決めることだし。Noteで創作して何人かのファンがついて売れるなら立派なプロである気がする。あの夏目漱石だって、一部の人に同人活動で読んでくれるぐらいでちょうどいいみたいなことを言っていなかったっけ?
だから、そこに一定の評価なるものをもって選ばれるなんてことが可能なんだろうか?しかもそれを正統な手続きを踏んだとどうしている?という疑問があった…わけだけど、高橋源一郎の「超小説教室」を読んで、そういうものが確かにあることがなんとなく分かった。どうやら、あるらしい。
小説の新人賞がどのように選ばれるか?選考員の立場から語られたものだが…内容は大変に分かりやすいものだった。
プロ小説家として光るものが持っているかを、小説を書いている人だからこそ見抜く民主的な「新人賞」の選考について。
あ、高橋源一郎だから民主的なんて言葉をつかいたかったのかもしれないが、新人賞の選考は民主的な投票数で単純には決まらない気がする。
ただ、ギルドになっていて、小説組合にいれるかどうか?の選考が行われるらしい。
好きか嫌いかというよりは、小説というジャンルで取り組んでいけるのか?その素養をを判定するような場。
ハンターハンターのハンター資格取得試験のような評価点ではなく一定レベルに達していてギルドメンバーとしてやっていけそうか?という物差しで測られる。ジャンルに依存せず、ただ表現したいことがしっかり小説の構造を踏まえた上で表現されているかどうか。
小説家として”まずく無い有様であるかどうか?”を見極められる。
業界に入るセンスと覚悟のみがそこでは見られていて、題材の切り出し方はまた二の次なのだ…と自分の言葉で勝手に決めつけたが…そんな印象を受けた。
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