【戯言】魂の存在と自己犠牲の精神

徒然草2.0

(自分のためのメモなので他の戯言以上に色々と論理がぶっ飛んでいます)

魂の存在があるからこそ、自己犠牲の精神が成立すると言えるのでしょうか。

(死んだら終わりだという人は生きていることがすべてなので利己的に生きると思うのです)

キリスト教ないしはイスラム教ないしはチベット仏教的な見解がない人々には、

自己犠牲的な行為をする動機がないと言えるでしょうか?

結論から言えば、そんなことありませんよね。

面倒なので例を挙げませんが、端的に言えば「そんなことがない例」はいくらでもあります。

思想的にせよ生物的な本能にせよ、自己犠牲の精神というものが備わっており、それが第三者からして美しく見えることがある。

(ま、それはともかく)極端なことを言えば、魂の存在と自己犠牲は、なんら関係がないということになるでしょう。

魂が輪廻して生まれ変わる時に業(カルマ)を取り除くための行が必ずしも肯定されるわけではありません。

魂があってそれが循環しているとしたほうが、何かと説明しやすいこともあるわけで、そうであるからこそ美しくもあることもあるのでしょうか。

ちょっと話がそれましたが…

…上記のような思索をしたのは、多くの神話が魂の継承の話を以て現在を説明するものだと思ったからです。

また、魂を持ち出さずとも、文字の伝達によって死者が生きている人に語りかけるという文化の継承があるということは、無神論者も否定しないでしょう。

非科学な神話にせよ科学的な歴史にせよ、一個人がそれらを継承する役割をするかどうかはさておき、過去の人間が持つ情報を私達は利用しています。

「一個人がそれらを継承する役割」という意味だと、別に私個人はなんら未来へ寄与していません。

「男児たるもの歴史に名を残そうとは思わぬか」とか、戦記ものに出てきそうな言葉を出されると、

まあ、何のための自分の一個人の生命かしら?と壮大というか尊大なことを考えてしまいます。

その時点で自己愛が強すぎるのかも知れませんが(苦笑)

なにはともあれ、ちょっと飛躍したことを言えば…

上述した歴史的神話的な情報継承も一種の魂みたいなものだと捉えられるならば、

魂の存在と自己犠牲について、全く無関係なものであるとは論理的に言いきれません。

そういった文化的継承の他に遺伝的継承に価値を置くこともありますが、調べれば分かることですが基本的に血というのは途絶えます。少子化で人口減少が著しい先進国で流行る思想ではありません。多様化とか多文化共生とか言い出せばもっとどうでもいい。流行らないからどうでもいいというわけではありませんが、語るに値しません(まあ、子どもをつくることを正当化するためにダーウィンの進化論を語る人に出会ったことがありますが、イミフ)というわけで文化的な継承なども意識せず、大きな時代の流れをどうにかこうにかしようとかせず、無名で歴史に名を残さない私達はなんとなく今を生きている。

尊大な認識だとか御目出度(おめでた)い自己認識だと揶揄されるかもしれません(つーか、一昔前の私であればその手のことを言う人を揶揄していましたw)が、生命がある意味は未来に対して少なからず”在る”んじゃないでしょうか。という意味では最近どうも、どうやって継承スべきか?なんてことを考えていますし、自分の命ってどうやって肯定すりゃいいの?(深刻な理由というよりは、どっちかというと実践的なそれっぽい理由で)そんなことを思ったりします。

まあ、知識継承、情報継承、広義の文化的継承などと言うと…大した知識を貯金しているわけではないのに、年寄になったものですねぇ(汗)

徒然草2.0
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