なにも私は、危険なところに行くのは自己責任だから、勝手に死んでくれていい!と言いたいのではない。
閉山した冬の富士に登って、滑落して動けなくなった人が、助けを求めるのは間違っているとか、そういうことを言いたいわけではない。
そういう意味のタイトル「山で死んでいい」じゃあ、ありません。
あとこれは、遭難した者の遺族に対して残している言葉でもない。遺族は悲しむだろう。。。
だから、死に急ぐ行為をすべきではないという意味では、
「山に行った人は死んでいい」と言うのは、なんともぶっきら棒な言い方かもしれない。。。
しかし、あえて言いたい。山に登るのが好きな人のひとりとして言いたい。
山という自然の只中にある人の生なんて、とてもちっぽけなものである。
そもそも、そのちっぽけな命があろうがなかろうが…どっちだっていいのだ。
ということを、人間社会に住んでいる私たちは、忘れてしまいがちで、
山に行くと、そのことを私は思い出す。だから、山に行きたくなる。
そうなると、死にたくなるか?というと逆で、死ぬ理由が見当たらなくなる。
生も死も超越する。生も死も無意味に思えてくる。
死ぬときは死ぬし、そうでなければ生き続けるという、ごく当たり前な結論に行き着く。
山で死んでしまったら、ちっぽけな死だ。
実は人間社会にいる時ほどに、そこまで私たちは、たとえ死に逝くとしても、色々な思惑を投影する暇も与えられない。
山は空気が薄くて温度も低いから、なんらかの不幸で動けなくなってしまっても、
意識がすっと消えてしまうことに…長く時間を必要としない。
自然に全身麻酔が施されるような仕様になっている。
人間の体というか生命体は死ぬこともよくできている。
どちらかというとバグは人間社会のほうにあって生命体の生死のほうにはない。
だから、私たちは「山で死んでいい」なんていうふうに思うことがある。
(あれ、なんか論理的な文になっていない気がする(汗))
死にたいのは、きまって人間社会の中で孤独を感じるからだ。
山では死ぬことなどは、そもそも大したことがないこと。
問題にならないことなのだ。
冒険家というやつはとてもバカな職業だと思う。
あいつらは大自然の中へ冒険に行っているわけじゃない。
実は、人間社会の中を彷徨っているだけだ。
死とか金とかを気にしながら、荒野を行くなんて辞めたほうがいい。
なんか、話がソレた気がするが終わり。
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