結論から言えば、瞑想の意義を理解し瞑想を継続し続けることが難しいのだと思う。私達にとって、意味のないと感じることをやり続けることこそ難しいことはないのです。
…私達に必要なのは、自分にとって意味のあることをやり続けることなのですが、自分にとって意味のありそうなものが世の中にたくさん転がっている気がすると錯覚してしまうのが、高度情報化社会の問題点と言い表すこともできるかもしれません。
瞑想の話に戻して言えば、別にヴィッパサナー瞑想やサマタ瞑想を正しいやり方で行うテクニックそのものが難しいのではなく、瞑想習慣を慌ただしい人生の中にとりいれる意義を理解して、それを継続していくことが難しい…。
…はやい話が、それだけなのだと思う。
…もっと言いきってしまえば現代と瞑想の間には大きな隔たりがあり「現代人にとって必要な瞑想」なんて観点がそもそもナンセンス。現代社会で心がざわつくのを抑えるために瞑想をやるなら、現代社会を捨てたほうがいいのだが、そうは行かないけれど心を落ち着かせて物事をありのままで見たいがゆえに、瞑想というテクニックに手をのばす。
…早い話がこれでは結局のところ何のために瞑想をやっているのかわからなくなりがちだと思う。という結果に至りがちである。
なぜ出家するのか?ということを逆説的に言えば、世俗にいると煩悩まみれになるからそれを捨てるためだ…ということになる。世俗にいながら瞑想なりヨガのいいところだけ取り入れようというのは、世俗にいながら解脱に近い状態で救われようとするに過ぎない取り組みで、上座部仏教から大乗仏教への流れを作り出した現象に過ぎない感じがする。ようは限られた人の修行術を、現代人に使えそうだったから宗教性を配して科学と呼べるところまで分解して意義を見出し再構築している。日本では米国流のプラグマティックな流れと仏教系の瞑想を組み合わせた瞑想術が語られているが、いずれにせよテクニカルなものを追いかけているだけになりがちで、瞑想を生活の中心にするという実践に確信を持てるようにならない限り言ってしまえばダメなんだ。
…というのが結論。
効果があるとかダメだとかいう決めつけの連続こそが浅はかだななんて思うようになったら成功かもしれない。ただし、その人は世俗を捨てなければ生きて行けん(苦笑)。
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