誰かに共感するということは、すなわち他人の主観を自分が受け入れるというプロセスです。
ここに客観的なものなど初めからありません。
他人の主観的なものを、自分の主観として再現するだけ。
…というよりは、私自身が「客観的なもの」について割と懐疑的です。
数学とか科学とか嫌いな方でありませんが、それらが客観の最な根拠や根拠そのもの…とは思っていない。
あくまで、主観的な根拠を他人のために説明する道具に過ぎない。その域を出ない。
例えば、言葉は道具に過ぎない。と言ってもいいのかもしれない。
…というのは、言葉便利である道具であると同時に、どこまで言っても私の延長になりえない事物ということ。
言い換えれば、客観的なデータは私達にとって、どこまで言っても道具に過ぎない。
もっと言えば、主観と客観という対義語は、まるで真逆のものがあるように錯覚を受けてしまう。
たぶん、それは間違っている。客観というか客体と言ったほうが、字義的に正しいかもしれない。
もともと主観の補強材/糊みたいなものが客観的なものだ。
主観的な共有に失敗した時に、その主観的再現を致し方なく客観的データにより行う副次的な根拠。
…このことについて、分かりやすく解説している本があればいいのですが、残念ながら思い付きません。
けれど、間違った科学主義を信奉する人がいる(科学主義を否定しているのではなく間違った科学主義を否定しています)。
間違った科学主義者は神を…無条件の神を否定する…それは、人間が考え出した都合のいい概念に過ぎない。と言うだろう。
しかし、そういう根拠であるところの科学主義者が信奉する客観的モノが一体どうして概念に過ぎない神よりも上位であるとか下位であるとかいった、数学的な位置づけが可能なのか?ということを疑わないのだろうか?このことに回答できないので科学の万能を謳うことがここで言う「間違った科学主義者」の1つの特徴だろう。そうなるくらいなら無条件の神様=自由そのものを進行したほうが誤った科学への信奉よりもずっとマシだろう。
もちろん、これは数値的な根拠はまったくない。
あくまで主観的なものに寄る、客観的な概念では語り得ないものだ。
だけど、これからの時代に人は、そういう考え方を大切にしていかないといけない。
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