プロペシミストを目指しているgomiryoです(違
アウグスティヌスVSペラギウスの論争は大乗仏教親鸞VS小乗仏教を彷彿させる話ですね。
これとても面白いです↓
私的には、あらかじめ自分の人生は決まっていると考えた方が、この世の中は生きやすいのではないか?と昔から感じていたことなのでアウグスティヌス&カルヴァンの考えは、非常にしっくり来ます。体に馴染む気がします。今自分が置かれている立場をいい意味で肯定してくれる気がします。エヴァンゲリオンのシンジじゃないけど嫌なことから「逃げちゃダメだ」の根拠となるような考え方だと思います。
たしかカトリック系の本の表題だったと思うんですが「目が出たところで花を咲かせよ」というクダリがあったがこれは聖書のどこかに出てくる言葉なんだろうか?カルヴァンはプロテスタントですが、そのへんの地に足ついた生き方の部分は聖書譲りの思想なんかな?とふと思いました。
…私は、すぐに現実逃避したくなるので現実逃避しないで、敢然と立ち向かう考え方にこの予定説が使える(という言い方が正しいかわりませんが)んではないかと思います。なんかあらゆること特に自分のうまくいかないことは自分のせいじゃない気がするんですよね。すなわち責任感がないというか。
しかし、ここで1つ疑問が。自分の人生があらかじめ決まっていて…あまり死後の世界に私は興味がない…という意味では無神論者というか唯物論者というか…物質的なものに偶然がなく世の中が必然で動いていて自由意志なんてものがない世界観だったとしたら?なにも努力をする必要はないのではないか?という考えができなくもない。私も何度かそんなことを考えたことがある。いずれにしても宗教者でも死後の世界にさほどこだわりが強くない人が多いし私もその1人なのです。死んでみないと死後の世界があるかないかわかりませんし、どう経験的に考えても無さそうですが。人間死んだらお終いです。でも、仮にそういう死後の世界があるとして…魂というのがあるとして、神様があらかじめ私の人生を決めていて天国に行く人は天国に行くものだ…これをカルヴァンは予定説と言ったわけだが、さらにこれを深めて言うなれば、予め地獄に行く人生も決まっていると言えるのではないか?ということになる。これを二重予定説という。が、予定説においてあまり重要な考えではないそうです。神のみぞ知ることに深入りすることをそもそもキリスト教は否定する。神は一方的に私達を救い天国に導くのであって、予め地獄に行く人を決めているわけではない。ゆえにそんなことを考えるのは無駄。そんなことを考えているのは(言い方はたいへん悪いですが)無神論者を極めてうつ病患者に過ぎない。
悪い方へ考えるのは自由だが考えても分からないことだし精神衛生上あまり良くないので考えないほうがいいどうせ考えても分からないことだし。(いい意味で楽観主義)
これ以上の結論は特にないです。
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