コピー可能なものを取り締まるのは当然なのかもしれないが…
デジタルの本質はコピーが容易に可能なところだろうから、
それ自体を禁止するというのは、もはや無理なのだ。と10代の頃から思っていた。
オリジナルなんてどこにもなくて、追い求めなくていいんだ。
なぜならもともとオリジナルなんてないし、幻想だから。
Winnyを作成した金子勇氏の心境つーか思想を、いまさらながら何となく分かってきだした。
参考:「Winny事件 – Wikipedia」
コピーとオリジナルの差なんてないばかりかコピーはオリジナルと同等かそれ以上ですらある。
コピーされても問題ない商売しかやったらダメなんだと商売で食べる以上そう思わざるをえなかったし、
少なくとも禁止する側とか監視する側とかいうのは、ひどくつまらないというか、
時代に逆行している公務員的な非創造的な仕事だなあとどこか思って、
自分で自分のクビをぐいぐい締め付けてそれに何らかの理由を添えて酔えるくらいじゃないと、
とうてい自分には出来ないなあ。
(補足…あ、ごめんなさい。すべての公務員が非創造的・非効率的・非生産的だと言いたいわけではなく、また違って民間企業なり組織だって非効率なところはいっぱいあるけど、どうもそういったところを憎んでしまうわけなので、そんな言い方になってしまっただけなのです。すみません)
じゃあ、どっちかというとぶっ壊す側の方でいいような気がしてくるよね。
金子勇氏のように。
まあしかし、アートの分野で言えば、
ここまで徹底してパクっておいてパクっていないといい切る精神もすごいなあと逆に感心する。
インスパイアですw、リスペクトですw、、、でいいと思うんだけどダメなんかなあ。
買う方もそれがコピーであることを理解して買わないとダメだし、
オリジナルを望むなら目が肥えた人が監視しないとダメなんじゃないかなあという気もするが。
色んなものの価値が地にオチているが、デジタルがアートの価値を明らかに落としている。
いや、この言い方は適切じゃあない。もともとデジタルはアートの敵ではないだろう。
じゃあ、なんなのか?に答えるほどのことをこの記事で扱う気はないが、
いずれにしてもオリジナルに固執するのとは違う考えをもって、
色んな權利が発生する事象に向き合っていかないといけない。
その立ち位置のありかたでおおよその生き方すら規定されてくると想像しだすと…なかなかに恐ろしいものがあるのだが。。
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