『日蓮を生きる』(著・ひろさちや)を読んだ感想。日蓮は佐前と佐後で考え方が変わる?

徒然草2.0

ネットでは日蓮宗系の宗教団体が日蓮を解説している情報を目にすることが多いが、脚色されて持ち上げられ過ぎている感が否めない。それら色がついたもの目を通してみても、どこまで話が本当かどうかよく分からない。どれくらい歴史的な文章をベースに日蓮像を正確に描けているか?を計るのはネットの情報では困難。別にこちらとしては後光綺羅びやかな日蓮上人と本尊(?)を拝みたいわけではない。

仮に日蓮という人柄に感化されるにしても、日蓮という一人の生身の日蓮という男を正確に見通してみたいと思うもの。というわけで日頃から中立的な日蓮像を描いているテキストをさがしている。特定の宗教団体や個人の意見がまったく含まれない文章もはっきり言って”ない”し”ない”ことが別にとりわけいけないわけでもない。ただ中立とか中道の線分を自分の中でしっかり引いておきたいのだ。

この『日蓮を生きる』も著作者の主観が含まれているのだが、それでも古文書をベースにして日本大乗仏教の嫌われ者である日蓮を、少しでも真摯に正しく捉え直そうといった態度がうかがえるので読んでよかった。むしろ、私のような立場の人によりそった主観論で描かれていて、かつ平易な文章で分かりやすい。

立正安国論は日蓮が30代に書いたもの(佐前)で、佐渡流罪後(佐後)には目立って政治に改革を求めなくなった姿などは初めて知った。佐前と佐後の思想が変わるので区別するそうだ。

また日蓮自身は天台宗の坊主だと自分自身で思っていて、宗派を作って行ったのは弟子にあたる。天台宗の開祖・法然がいて、日蓮がイエス(イエスはユダヤ教徒)で、キリスト教を作っていない(弟子のパウロがキリスト教を作った)のと同じ構図というわけですね。

例えば、創価学会の教学用語集などを見て見ましても、佐後に重要な書物を記したとは書いてありますが、日蓮の心情に深く迫るような説明にはなっていない気がするのです。これでは少し味気ない気がします。それでいて、教えそのものに重要な価値があるかのような持ち上げ方をしています。これは自分が欲しい情報と違うなと『日蓮を生きる』と読み比べていても思うわけです。内容に踏み入って読者が自分でその心に触れなくては、ありがたいも何もないでしょうし、と私は思ってしまうので。よく分からないけど誰かに「はーい、日蓮上人はすばらしい人なんです!この教えは超ありがたい!」て言われても「へー」となってしまいます。実際に書かれた文章から日蓮の思いを感じることができたら「へー!へー!へー!×1000」になるでしょう。へーの三千世界、一念三千。

私「日蓮の考えが分かりません」

信者「凡夫に法華経の意味が分かるわけがない。分からないものを拝む気持ちが大切!」

私「いや、そういう意味じゃないです。それはそれ、これはこれ。これのこの部分が分からないです…」

信者「…ここはあなたの来るところじゃないですね」

となるのがオチ。

いずれにしても毀誉褒貶多き人の日蓮であれば一層尚の事原典に当たって(そこまで私も労力をかけられないので、せめていくつもの視点で語られている書に目を通して)なるべく正確にその人の心と教えにふれたいもの。ちなみに思っていた通りでしたが、日蓮はイケイケの30代が終わった後、40,50代と晩年に至っては慈悲深い感じ。性格がいい意味でもマイルドになったようだということもわかりました。50代に至っては痩せ病に苦しみ61歳で亡くなるまで体調が悪かったようです。

五大部と言って「立正安国論」「開目抄」「観心本尊抄」「撰時抄」「報恩抄」が重要視されているが、日蓮が57歳の時に書いた『三沢抄』では「法門の事は、さどの国へながされし候し以前の法門は、ただ仏の爾前(にぜん)の教とおぼしめ」と書いている。つまりは、私の教えは佐渡に流された時のもの(立正安国論など)は仮の教え(前の教え)だと思ってくれ、ということで、佐渡に流された後でも同じ日蓮の教えと捉えるようですが、だいぶ日蓮の考えとは違うということがわかります。

20年に前に説いた方は古いから当てにしないでね、なんていうことは考えてみれば当たり前です。マーケティングの大家であるフィリップ・コトラーも、講義の後に最新の本を自分のところに持ってこない人には、サインしないそうです(古い本はすでにコトラーの本ではない、という意味)であればこそ、時系列に日蓮の心情を感じながら彼の歩みを鑑みて読み解くほうが、正しい理解に至ることができるというもの。

これに合わせて植木雅俊(うえきまさとし)の法華経解説を読みながら、なるべくただしくお経を読むことにチャレンジしていることです。

※日蓮系の宗教団体についてあれこれ言うためには、日蓮が学んだ天台宗の教え(≒すなわち日本大乗仏教史の概略)と法華経と日蓮の書いたもの、あたりについては目を通しておかなければならないのでは?と思いました。思っただけでやるとは言っていません。

というわけで他にも、こんなおだやかな解釈ができるんだなと感心する記述がいくつもあり、柔軟な仏教観が養われる本だったと思います。

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