「ヤンキー経済」を読んだ感想

さとり世代とかマイルドヤンキーという”微妙”な言葉を考えた博報堂の原田曜平によるヤンキー論とまったく知らずに手にとった『ヤンキー経済』という本を読んだ感想について個人的なヤンキー論を交えて述べてみたいと思う。

私が育った地元は横浜市の中央右寄りの地域は、今じゃ老人しか住んで居ない過疎地であるが、今でも夜の国道は暴走族がブイブイ言わせていて大変うるさい。横浜でこの状態なのだから、地方出身者の地方衰退論は聞くには及ばない。「ヤンキー経済」は、その手の暴走行為とかに関わっているようなヤンキー達が、現代の消費経済を支えるという話なのだが、正直いって無理があるというか無意味な分類だと思う。

確かにそこらへんのヤンキーと話をしてみると、尖ったやつがいないという印象は確かにある。マイルドなヤンキーっていうのはたしかにそういう傾向があるとは思う。私が10代の頃はおやじ狩りやエアマックス狩りが流行っていたし。実際に親父からカツアゲしていることを自慢げに話す者も知人にいた。そういうのがいないのは、おやじとしてはありがたい。ただ、それ以上でもそれ以外でもない印象なのだ。ヤンキーは確かに地元愛が強いところがあるが、それは地元から出て働く選択肢を持たないだけ。風俗店や工務店や飲食店などで働いている知人は、先輩のつてで働いているに過ぎない。基本的に先輩の主従関係がはっきりしている縦社会だから、礼儀正しいのは当たり前で、また喧嘩になりそうな時に相手がどういう立場の人かわからなくては危険だから、わりと礼儀正しく検挙でいいやつが大半なのは、前々からの現象で特筆することでもない。今じゃ逆に都市部で喧嘩する方が、相手の素性を関係なしに挑んでくるのでおっかない。地元のヤンキーよりも都会にいる人のほうが野蛮な一面もある(むしろ、社会学的にそういう人の心理分析をして欲しいくらいだ)

ビー・バップ・ハイスクールやろくでなしBLUESの価値観が通じない現代のヤンキーたちより以前から、大人から見たマイルドさはもともとあった現象に過ぎないということ。あらゆる大人や先輩を敵に回すようなことは、本当の強者でなければできるものではない。旧車會の写真を上げている強面の知人なんかも、言っちゃ悪いがもともと尖っていないのでこじらせているだけにしか見えない、と言っても刺してこないだろう。つまり、ポリシーではなく、ファッションなのだ。本当に尖っている人は、尖る意味を失って汗をかいてビジネスに勤しんで普通の人になっているもの。高校に行く宛がなくて、生きる意味を失った知人は、バイクで死んでしまった。人間社会のルールから離れれば、表だろうが裏だろうが若死にしやすい。そうならない選択をとれる人はもともととっているってだけの話なのだ。

六本木フラワー事件や市川海老蔵暴行事件で勇名を馳せた関東連合の関係者が最後のヤンキーで、後に続くような集団がないかと言えばそういうわけでもない。地元愛が強いからと言っても地元の経済を支える存在としては頭数が少なすぎる。経済効果を試算できないなら机上の空論であり、マーケティング的に何の役にも立たない。LINEつかっているとか、地元のイオンに行くとか、ヤンキーじゃなくても行くでしょうに(呆)

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