戯言。御成敗式目(システム)と信仰。

徒然草2.0

今朝、神社に行ってお参りしたら「生命の言葉」というのがいつものように掲示されていまして…

「神は人の敬いによりて威を増し、人は神の徳によって運を添う」というようなことが書かれていました。

これは御成敗式目の第一条らしい。御成敗式目は、この書き出しではじまるそうです。

…知らなかったのですが、御成敗式目がはじめに言いたいことは神社の信仰ベースでこの武士の法令(ルール)=社会システムが成立するんだよ!と言いいたいのではないかと思いました。調べてみると神のみならず神仏に対して…というのが正解かもしれませんが。

昔、御成敗式目の原文が書かれた書籍を持っていた気がしましたが、捨ててしまったので…Webで調べています。なんで御成敗式目を買ったんだろうな?覚えていない。御成敗式目は武家社会向けの法律を定めたもので、ただの法律だと思っていましたが…神社への信仰ありきでシステムがあるんだよ…ってことを意味していると思えば、これは感慨深いと思いました。

たぶん、私の考えているところによれば、システムはシステムとして独立するわけではないのです。

人が神(精神性・マインド)を認識したうえで成立するのが人・個人に輪をかけたシステムであるべきであって、そこから人が精神の部分を外してしまったら、社会システムはうまく稼働しないということです。

仮説であり、プラグマティックに神を論じますが、それはプロテスタンティズムにも同様なことが言えるのではないでしょうか。

資本主義というシステムもプロテスタントとしての信仰(たぶん具体的には隣人愛を指している)がないと「うまく稼働しないよ!」とマックス・ウェーバーなども言っているらしいので、なぜそのように言えるのか?については調べてみようと思っていたところなのですが…別に資本主義システムに限らず、日本の武家社会法令システムも同様に神社への信仰なくして成り立たないよ!というところでは、神と人が二人三脚で一緒で初めて一体化するものだという意味で、さほどキリスト教と比較してもそのところのプリンシプルな部分に大きな差はないんじゃないかな?という風に思っています。

キリスト教の場合は、三位一体の父と子と精霊になるのかもしれませんが、私の中では同じようなものです。

そして、現代人は無神論者や無宗教者の立場をとり、昔の人は神を信ずる信仰があったからこそ、このような書き方をすると説明する。というふうに学校の授業では説明されますが…果たして本当だろうか?違うのではないかと思います。信仰があって、初めてシステムが稼働するのであって、システム化されていれば稼働するのではないのです。信仰が常に先行するのです。どっかの神父さんみたいなことを言っていますが(苦笑)ここを間違えますと、システムが正常に稼働しないということにしかならないのではないか?というのが最近の核心です。年を取ると信仰深くなるのかもしれません…。若者に信仰の大切さを解くじいさんになっていく気がしないでもないが…。ただ、信ずるところから正しい行動が始まり、そして結果が得られるのであって、正しい行動によって結果が得られるのではないのです。仮に結果が得られても、そこに信仰がなければ結果をうまく生かすことにもつながらないでしょう。大きなあらいゆる循環システムは(システムと名のつけられるものとその仕様は)まず本質的に信ずるところからしか生まれない、と言い切ってよいのではないか?

神という認識の外部にある不可知な領域をどう解釈するかによって、認識の内部である私そのものや現実世界にある存在のありかたが大きく変わってくるわけですが、御成敗式目もそれを承知で(人が)神の敬うことで威を増す。と言う。神は現実にはっきりと実在することを示さないわけで、人の信仰によってのみ在らせられるということだが、それでもそれを敬うことで神の力を得て「運を添う」ことができる。これは幸福になれるよ…ということなので。一種の福音です。わりと今の人にも理解しやすい普遍的な認識論を以って、神を敬う大切さを書き出しで解いているのだ…と言えそうです。

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