戯言。キリスト教理解のキーは客観性を認めるかどうか

徒然草2.0

本で信仰を教えることは難しいと思う。

信仰のない人に信仰の大切さは伝わらない。

神様を信じない。

というか、神様と言うからダメなのではないか。

例えば、日本人の善悪の基準は3つある。

その3つがどのように作用するか?によってその日本人の行動が決まる。

1つは自分。

自分にとって得か損か、嫌いか好きかとかで、行動を選択する。

どんな人でも、まず自分の立場で考えて動く。

次に、他人の評価。他人に見られた時にどのように思われるか?

これは、子どもであれば「親に怒られないか」が基準になるのだろうか。

大人であれば、社会的信用の観点から、周囲に行動を合わせるだろう。

3つは…これは無い人もいるかもしれない。

強い弱いという代物でもあると思う。

より”高み”からの判断で、それは人によっては、神様かもしれないし、美学という言葉で現れるのかもしれない。もしくは常識とか品格とか自然現象と呼ぶ人もいるかもしれない。これについては、他人の行動を真似るという意味もあるかもしれないし、他人の評価と少し被る部分もあるが、動機づけ・理由付けとして「客観的に正しいかどうか」を問うということ。自分や他人から離れた第三の目だ。

自分や他人に見られていないとしても、自分はそうはしたくないという根拠になるもの。

ある種の信仰。私の言葉で言えばそれは「客観性」になる。

客観的に良ければOKで、ダメならNG。

その客観性とは何か?はこの際、どうでもいい。

それをどう持ちうるか?で人の思考が決まり行動の選択が変わる。

信仰というものは、本来そのようなものではないか。

客観的に是か非か。

などと「キリスト教入門」の本を読んでいて思った。

信仰とは客観性をどのように持つかの現れだ…で、

これを体得できないとしたら、由々しき事態かもしれない。

逆にその人なりに客観性を持っていれば、

キリスト教がなんたるかを一定レベルで理解はできるのではないか。

ようはイエスとしての生き方とか、それが教条にまとめられたものを信じるか、とかはあくまで肉付けであって、自分がどのような判断によって生きるべきかに情報(聖書とかの外部情報・テキストのこと)をいれて自己変容を促すことが、キリスト教を学ぶことなのだし、キリスト教を学ぶ意義なのだ。

まあこれは、自分なりの理解です。

徒然草2.0
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