【戯言】私たちは他人の為に祈るが、もっと自分のために祈ったほうがいいという話

徒然草2.0

何かに対して祈ったことはありますか?それは誰のために祈りましたか?

…たぶん、その祈りは自分のためではなく、他人のためではなかったですか?

祈るっていうのは、他人のために祈るけど自分のためには祈ることがあまりないのではないでしょうか。

例えば、願望を持つことも祈るに含めれば祈ることはあるかもしれませんが…

他人のために自分ができることがない時に…思わず「祈りたくなる」のではないでしょうか。

ただ、祈るという行為を振り返ってみて、

…私は祈るという行為は無意味だな…と思っていたことがあります。

神様にせよ仏様にせよ祈りは叶えてくれません。

…まあしかし、なんの根拠がなくっても、神も仏も信じていなくても、祈っているという自覚が無くても…心の作用として、自分にプラスに働くなら祈ってもいいのではないでしょうか?と最近よく思います。

祈ることが何らかの超越的な存在によって叶えてもらえるという意味では無意味ですが、例えば瞑想のテクニカルな観点から言えば自己暗示の一種なわけですから、自己変容をさせるというような自己啓発的な意味があるのです。

あとは…なんというか、自分でできることには限りがあるなと思えば思うほど…祈るってことは必ずしも無意味じゃないなと思います。それに、誰かが自分のために祈ってくれてそこまで悪い気持ちにはならないです。

そこで、私たちは他人のために祈るし、自分は誰かに祈られる存在なわけですが、「自分のために祈る」ってことをわりとないがしろにしている人が多いはず。特に私のように無神論者的だったり無宗教だったりすれば、尚更「祈る」ことの重要な価値を失しているはず。外国人(欧米人)でも無神論者という自覚を持つ人が増えているそうですから、自分のために祈るという行為に無自覚である人が増えているのではないかと思います。

というわけでうまくまとめられた気がしませんが「他人のために祈るのに、なぜ私たちは自分のために祈らないのか?」という問題提起をしたい。

伝わりますか。伝わらないか。なんか、もう少し宗教とかスピリチュアルとかを研究?して分かったことがあったらこの件についてもう少し深堀りしたいと思います。たぶん、自分が「祈ること」の重要性を言語化できるほどに理解していないんだと思います。ただ、年老いてやることといったら祈ることぐらいしかないのではないかと思うのです。肉体も知能も衰えて、例えば財産も家族とかも無くなって、あとできることは…ないわけで、自分の生をポジティブに捉えてなんかやることがあるかな?って思うと「他人のために祈ろうか」ぐらいで、あと敷いて言えば主語である他人を”自分”に変えることぐらいしか、やることがない。

徒然草2.0
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