【戯言】無神論者が間違えていると思う2つのこと

徒然草2.0

こんにちは。無神論者のgomiryoです。

gomiryo
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私は神様を信じていません

…などと言ったもの、無神論者には2つくらい越えられない間違いがあると、

個人的に思っています。

無神論者は神様を信じない信仰をしている

私は自分の見たものしか信じない。神様は見えないし現れない。

神様を信じる…などと言う人だって、神という人格に出会ってはいないではないか。

全知全能の絶対的なものなんて、現代にあるわけがない。

だが、絶対に神様を信じないという信念もまた一種信仰に近いものがある。

絶対的なものが想定される時点で、その人は見えない現れない何かを信じているではないか。

無神論者もまた不確かな概念の絶対性を信じている…と、妄想を語るところから語りましたが…

無神論者という立場にそもそも矛盾というか無理があるのです。

これが誤りの1つめです。

無神論者の無意味な自由

(また、妄想を語るところから始めますが)四畳半の独房(洋式便所付き)食事は1日2回のパンのみ。読める本は聖書1つ。幸い私は自分の頭の中に妄想が詰まっていて、それと自由に戯れているだけでここに入れられてからの30年は結構楽しかった。ただ長い年月が経つとこのまま生きているのもこのままここで終わるのも悲しい。そして無意味な人生だ。とても不自由だと思う。まあ、この狭い独房で許される限りのことができるという意味では、自由かもしれない。四畳半の端から端まで行ったり来たりできる。物理法則に沿って自由に動けはする。自由に考えることができる。ただし、何かを思って叫べば、警備員が警棒を持って叩きにくるルールはあるがね。娑婆にいる君たちにとっての司法法則(刑法と民法)だろう。それに抵触しない範囲で、誰かの権利を侵さない限りは、俺は自由なんだ。で、これが自由と呼べるのだろうか?娑婆にいる君は俺を囚人だと嘲って鼻で笑うのかもしれないが…でも君たちも俺よりちょっと物理法則と司法法則の示す範囲が広いだけで、信じられる何かがなければ、僕と何ら変わりがない生き物のではないだろうか?信じられるものがないなかで、自由に行動しているなんてことはバカバカしいだろ。自分が見えている本を読んで頭の中に描いた”世界”を信じて行動していたほうが、なにぶんいいのではないか?とね。そういうわけで私はある間違いに気がついたんだ。無いと思っているものを信じる自由を行使したほうが、自分の”世界”が広がってくるということにね。――それから、囚人は独房で死に至るまで熱心に聖書を読むようになった。

ある無神論者の収監は彼を「不自由で哀れな男」だと思ったが、ある有神論者の収監は彼を「自由で幸せな男」だと思ったらしい。

無神論者は「自由で幸せな男」を見る能力がない…これが誤りの2つめ。

まとめ

・「神様は絶対にいない」と言うところの絶対もまた根拠がない。

・信じない可能世界よりも信じる可能世界「可能世界論 – Wikipedia」が広がっていることを知らない。

仮説を信じないのもまた窮屈であり、仮説によって動けないのもまた木偶の坊であり、仮説もなく動くのは衝動的でモラルも美学も勇気も正義も知性も何もない。

無神論者は”世界”を見るためのスコープを下げている”不自由さ”を信仰の本質なのだと後ろ向きに決めつける。

信仰する者からすると信仰したからこそ見えるように”自由になった”と思いたがる…そして、これを信仰の本質だと捉える。

この両者はけして相なれない。

どちらが良いかと言われれれば、好きな方を選択すればすればいい、ということに尽きるわけだし、聖書でもそう説いている。

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