【戯言】スピリチュアルや陰謀論を丁寧に捉えることの大切さ

徒然草2.0

「自己啓発」という言葉以上に誤解をされているのが「スピリチュアル」だと思います。

おおよそ、これらを否定的に捉えている人は、早い話がわかっていないと思います。

…というのは、認識哲学の観点からも、自分の視点でしか私達があらゆる物事を見ることはできない以上、「スピリチュアル」を無視することができないからです。

政治経済や歴史等を語る時に陰謀論の類をけして無視できないのと同様に、歴史的リーダーやその次代の大衆の頭の中にあるものの正体を追体験しないと手落ちになるからです(間違っていてもいいので、歴史的人物や一般大衆の思考トレース作業は必要不可欠です)その人に「スピリチュアル」な現象が無いからなのかわかりませんので、無益ないしは有害なものだと思いこむ傾向(一種の偏見)がある…とそれは致し方ないですが。…まあ、それは個人が踏み込めない領域ですし、個人が踏み込めないからこそ、自分(他人にとってみれば本人)や信頼をおける指導者とかに開拓してもらうしかないということになるのでしょう。

もちろん「スピリチュアル」を語っている人と安易に深く関わることは、身の安全から基本的に避けたほうがよいでしょう。

言わずもがな「スピリチュアル」が人の見ているものすべてに関する以上、それを知ってか知らぬかに関係なく、他人に預けてしまうことは、預けた人の人生に大きな影響があるからで、警戒心を持つことは生きていく上で必要な本能なのだと思います。それが悪い方向へ発露したのが地下鉄に毒ガスを撒くテロ活動なわけですし。

…と、あまり変な人に思われないようにする言い訳的な前置きだけは丁寧(?)にすることにしています。

それは、さておき、最近よく相川圭子という人の本を読んでいます。

まずはWebと書籍から伺える情報だけで結構満足しているだけで、私は結構満足しているのですが…この人は端的に「すごい人だ」と思います。

ブッダとイエスを持ち出して語る聖人は多いのですが、イエスの思想をまったく矛盾なく取り入れているところがとても上手。

(なんだか、上から目線だと感じたら申し訳ないですが、)

仏教者とっても、キリスト者にとっても、読んでいても矛盾がないのではないか(無用に言葉尻の気に入らぬ部分を拾っては揚げ足取りをしなければ)(もっとも、これは私の批判的な読み方が揚げ足取りになっているのだが)非常にうまく融合が”でき過ぎている”ので、一読しただけでは融合していることにも気づかなかった。

ぱっと私が思いつく「パラマハンサ・ヨガナンダ – Wikipedia」「すごい人」は「ラーマクリシュナ – Wikipedia」「バグワン・シュリ・ラジニーシ – Wikipedia」などよりも、分かりやすい。

日本人だから当たりまえか。

融合の以前の問題で”昇華している”と言ってもいいかもしれない。

読んでいる私がそう思っているだけで(私の視点が昔より変わっただけかもしれませんが)そんなふうに思いました。

専門用語をなるべく出さないで(その1冊の本で完結して十分に理解できる)前知識なしに読めるようになっている。

ざっと読んで読み直さずに、この人が多くの人に薦めているヒマラヤ瞑想セッションは…

業=カルマ(過去生、行動、行動を促す記憶)
これをヒマラヤ瞑想で浄化をすると真我が現れる=悟っている状態
であり「さらに真我を神と指導者のエネルギーと合一させる」ことで”完成!”
それぞれのステップ(順番)はさておきこんな感じ。
多かれ少なかれ高原の仏教はこんな感じかと。

指導者からディクシャとして授けられたエネルギーにより、愛と慈しみを与えられて本当の自分になる…というのは、キリスト教徒が神の意志に従って生きる理想とまったく矛盾しない…というよりも、人間の自由意志に従って神に従って生きる決心そのものと言ってもいい。

(雑に言えば)宗教が目指す究極目標は同じである。

…これらを理屈で理解しようとすると言葉遊びになるが、概念活動というかベン図で表すと論理的に矛盾が(いまのところ)ありません。

矛盾よりも個人的に気持ち悪いのが、空白なのですが、それが埋まってくる感じと言ったほうがいいか。

さしあたって影響範囲が少なければ、矛盾は矛盾のままほおっておけばいいか?と思うようにも私自身がなってしまった。

「あるものはある、ないものはない」(パルメニデス)って言うのは、哲学的な究極の問いで…科学においても無視できないものでしょう。

あるものをないなんて言うのも、ないものものをあると言うのも、私から見ればおかしなヤツなわけですが。

主語のI「私」とYou「私以外(他人)」に着眼すると何の問題もない。

Youに着眼して「(あるひとにとっては)あるものはあるし、ないひとにない」って言いかえれば何の問題もありません。

Iに着眼して「私があると思うものをないとと言う人がいて、私がないと思うものをあると言う人がいる」と言ってもいいでしょう。

それじゃあ普遍的な真理を語るなんてできない!て事になりますが、概ね現在の学問はそこで止まっています。止まっているというのは、今後は進む可能性があるがゆえにそう言っているに過ぎません。ここが終着駅の場合は、電車はもう進みません。兎にも角にも現在において、他人が語るテキストの論理的問題点の正誤しか、評価できないのです(あとは、感覚的な評価)

…なにが言いたいのか分からなくなりましたが、最近そんなことを考えながらキリスト教系の本と相川圭子の本を読んでいる。

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