大谷晶の『他人屋のゆうれい』が非常に読みやすかったので、他の作品も読んでみようと思った。今回手に取ったのは、40歳を過ぎた等身大の大谷晶によるエッセイ集。自分も40になって「ああ、そうなんだよな」と共感できることが多く、みんなだいたい同じことを考えるんだなと思った。本書もとても読みやすい。人と話しながら読んでも内容が入ってくるレベルで、自分も参考にしたいと思った。
…まあ、それ以外に特筆することはないのだが、大谷晶自身が「ひっそり神秘的で、どこで何をしているか分からない作家」に憧れつつも、結局そうなれない自分を描いているところが面白い。見た目は顔中ピアス、タトゥーだらけで女子プロレスのヒールそのものなのに。
本人はあまり自覚していないようだが、私からすると、福祉に関心のある“ビジネス左翼”とでも言うべき立ち位置に見える。レズビアンであり落伍者でもある自分を肯定する社会を望んでいるのだろう。政治運動する気はない芸術家なのだろうけど、そこらへんは真面目すぎる人なのか…立場の違う私には共感しづらいのだが、作家としての社会的責任を自覚しているのも確かで、だからこそ少し偽善的な匂いが強い。見た目らしくもっとデカダン文学であってほしい、と勝手に思ってしまう。
まあ、今どきの作家として活動していく以上、そういう自己コーディネートは必要なのだろう。現実に出会ったら接点はまったくない人だが、それでも人に読ませる筆の力があってすごい。(俺に読ませる筆力あってお前すごいね…なんで上から目線なのかは不明)
40代になると体に不調が出てくる。どこで死ぬか分からないし、突然死の可能性もある。平均寿命まで生きる確率は2人に1人。40歳は折り返し地点だが、平均寿命を仮のゴールとするなら、その途中で半分は脱落する計算になる。食欲は減り、食べ放題や特盛に魅力を感じなくなる一方で、あまり食べなくても脂肪がつき落ちにくい。30代は「若さ寄りの老い」だったが、40代からは「老い寄りの若さ」になってくる。高齢化社会では「老いたふり」もできないので、そういう言い方になったが。
そういえば、私は「大人になりたい」と思ったことがない。子どもの頃は「大人になりたい」と思っていたが、それは法律的にであって、成人して働き、お金を稼ぎ自由に使えるという意味の“大人”であって、大人そのものは子どもの頃から虚構だと思っていたし、今もそうだ。子どもの時は大人らしく、大人の時は子どもらしくありたい、などと年甲斐も無くそんなことが素に出てくる。大谷晶もそのあたり大人のフィクション性は自覚していいる。作家としても、フィクション性とリアル性のバランスをどう取るか、それを受け入れる読者をどう分析するか、職業作家ならその切り分けが技術なのだろう。そこが上手いと感じた。
私は小説にあまり興味がない。フィクションが嫌いだとも言うが、ではフィクションとは何か?と考えると難しい。国家や家族もフィクションだし、人間関係や人生もフィクションが入り混じって現実を構成している。だから“大人”も“子ども”もフィクションで、ただのラベルにすぎない。そんなふわふわした気分でページをめくっていた。
というわけで誰にでも読めるという意味で、おすすめしたい一冊だ。
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