読書|『聖と俗』(宮台真司)を読んだが『本当はかわいい宮台真司入門』というタイトルにすべき。

徒然草2.0

副題は「対話による宮台真司クロニクル」。つまり、近田春夫という人が、ひたすら宮台真司に語らせて、宮台真司という人物像を浮かび上がらせる――いわば宮台ファンのための伝記である。
だから本当のタイトルは『本当はかわいい宮台真司入門』くらいでよかったのではないかと思う。

『聖と俗』なんてタイトルだから、最初は宗教を絡めた社会学史の本かと思ったが、まったく違った。「シャレをオシャレ」にできないセンスのなさが残念である。どうせ宮台真司に興味のある人しか読まないのだから、もう少し遊び心あるタイトルでもよかったはずだ。

そういえば、自分のブログ内を「宮台真司」で検索すると、それなりに記事が出てくる(といっても数件程度)。自分の中の厨二病的病理を、少し昔のサブカル好きおじさん=宮台真司の視点から解体・分析できるのが面白くて、なんとなく彼の本を手に取ってしまう。
とはいえ、宮台の手法自体は浅く真似できても、「生きづらさを克服するロールモデル」としては、どうにも個人的には参考にならない人である。だから、遠くから眺めるのが精一杯だ。この本も、流行りの音楽のように“聞き流す”くらいの距離感でちょうどいい。
それでも「宮台真司」というキーワードに何か引っかかるものがある人にとっては、とても読みやすく、情報量も多い。退屈しのぎに彼の生き様をなぞるには、最も手頃な入門書だろう。断片的にしか語られてこなかったエピソードを、全部まとめてぶち込んだような構成で、もしかすると、これが最初で最後の「宮台真司クロニクル(総集編)」なのかもしれない。

とはいえ、『聖と俗』というタイトルだけは、それなりに意味を持っている。
吉本隆明『共同幻想論』の中にある、
「聖母(氏族の最初の母)から湧いた力を娘たちが継ぎ、女から湧いた力を男が使う。力が湧き出す時空が『聖』、力を使い尽くす時空が『俗』」
という一節を思い出す。
さらに、吉本の『言語にとって美とは何か』で、「指示表出」を〈expression〉、「自己表出」を〈explosion〉と言い換えているのだが、宮台は今もこの区分を使い続けている。

――これはたぶん、ナンパにも応用できる。男女のあれこれを理屈で正当化するには、実に都合がいい。これぞ宮台真司らしい、という感じである。

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