吉田松陰の物語『世に棲む日日』を読んでいる。
「為さざる有るなり、以って為す有るべし」――孟子の言葉である。
何かを成すには、まず何を“やらないか”を決めねばならない、という意味だ。
漢語にすれば「不為而有為(ふいありい)」や「然後有為(のちにしてはじめてなすことあり)」となり、これはこれで味わい深い響きがある。作中に登場する頼山陽(らいさんよう)。名前はよく見かけるが、江戸後期の儒学者であり、『日本外史』を著したことで知られている。『日本外史』は、源平の時代から徳川に至るまでの武士の歴史を(司馬遼太郎が敬愛した)『史記』のように漢文で記した書物だという。その頼山陽の優れた弟子に、森田節斎(もりたせっさい)という人物がいる。医者でありながら儒学者という変わり者。
吉田松陰はこの森田節斎の門下にあった。節斎のエピソードがなかなか興味深い。松陰が彼のもとを訪ねた1年後、節斎は四十を過ぎてから結婚する。
それまで、気(エネルギー)の浪費を避けるために女性を遠ざけていたというのだから、真面目というか、極端というか。妻となる無弦(むげん)は、学問に打ち込み、あばたの残る顔を気にして結婚を諦めていた女性だった。そんな彼女と節斎が結ばれる。ところが、司馬遼太郎はどこか現代的な価値観を反映していて、無弦を「醜女(しこめ)」と描写するくだりがあり、そこは少し引っかかった。お似合いの二人なのに――と思ってしまう。なんというか、「余計なお世話」という感じがした。
さて、吉田松陰が藩の命を受けて学んだ「山鹿流兵学(やまがりゅうへいがく)」というものがある。兵学といっても、単なる戦術論ではなく、仏教や道教の思想にも通じる“士道”の学問だったという。たとえば、「家中に押し入り敵を討つのは夜盗と同じだからやめるべき」「果たし合いは双方が合意して行われるべき」といった内容。つまり、倫理と節度を重んじた武士道である。
その後、松陰は松代藩(まつしろはん)の佐久間象山(さくましょうざん)のもとに学ぶ。
象山のもとで「西洋の学問に学ばねば、日本は危うい」と痛感する。
もはや山鹿流兵学などに閉じこもっている場合ではない――そう思った矢先に、浦賀(神奈川県横須賀市の先端)にペリー来航の報が届く。
人々がまだ船を手で漕ぐか帆で進めていた時代に、自ら動く蒸気船が黒煙を上げて現れ、「開国せよ」と迫る。その衝撃は、今の感覚では想像できないほどだったろう。
そういえば、私自身、横須賀には行ったことがあるが、浦賀はまだ歩いたことがない。ペリー来航の記念碑など、風情のある場所も多いらしい。いつかゆっくり歩いてみたいと思う。
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