哲学的に養老孟司の唯脳論ってどういう位置づけか?が気になるところだ…
『唯脳論』の中で養老孟司が大森荘蔵に指摘されたくだりがある。
世界は脳の産物か
唯脳論は、世界を脳の産物だとするものではない。前章で述べたように、意識的活動が脳の産物だという、当たり前のことを述べているだけである。科学哲学者の大森荘蔵氏は、私の唯脳論に対して、「無脳論」を述べられた。世界は脳の産物である。唯脳論は、そこに導く危険がある。そう大森氏は思われるのだろう。しかし、世界は脳の産物などとは、哲学者以外には、誰も思っていないのではないか。そういうことを考えるのが、ほとんど哲学者の定義ではないかと思うほどである。どう考えたって、素直に言えば、脳は世界の産物であり、哲学は脳の産物であり、脳は哲学よりも広く、世界は脳より広い。
哲学者は論理整合性を重視するので、われわれの心が脳の産物であるなら、世界が脳の産物になるということを、どうしても指摘したいらしい。その議論の際の世界とは、まさに脳の産物としての世界であろう。唯脳論は、そんなことはどうでもいいと言う。唯脳論からすれば、世界の解釈は1つではない。「脳」だけをとってみても、物質になったり、心になったりする。それが、われわれの脳が持つ性質なのである。
『唯脳論』
…まあ、ようは哲学的な解釈なんて、どうでもよくね?俺が唯脳論でいいたいのは、哲学的な話じゃなくて「脳は世界の産物であり、哲学は脳の産物であり、脳は哲学よりも広く、世界は脳より広い」を無条件で受け入れよ。ということらしい。
また、養老孟司が言う「無意識」は心理学のそれとは関係ないそうである…なんていうか、まあまあ適当な思想書であるようだ。
唯脳論などという言葉自体は、きっと唯物論や唯心論などから付けられた言葉だから、それらの徹底した論理と関係がありそうだと思うものだろう。
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