これまで養老孟司は戦後日本を否定するじいさんだと思っていたのだが『ヒトの壁』を読んでいたところ、養老孟司は自分に問題があると気がついて戦後日本の社会と和解したらしいことがわかった。
老齢にしてその気持ちは分からないでもないが、現在進行系で生きづらい者には寄る辺なく無責任ではないだろうか。
まあ、じいさんにきたいした私がたんにバカだったということで、私が己が拵えた「バカの壁」にぶちあったに過ぎない。とても些細なことだが。
戦後を否定してきた
(中略)
自分が否定したものに気が付けば、なんということはなかった。戦前がウソなら戦後もウソの塊だと思えたらよかったので、「一億玉砕」「本土決戦」と、「平和」「民主主義」を同じようなものだと見れば済んだのである。
厳密に言うなら、私は日本社会そのものを受け入れていなかったので、一種のヨソ者として現代社会を生きてきたのだと思う。それを受け入れてくれる余裕が社会にあったのは、ありがたいことで、この年齢までなんだか「生きにくい、所を得ない」と思ってきたのは、私が社会を否定してきたからで、生きにくかったのは、、社会を受け入れていない自分のせいで、社会のしではないと、八十歳を超えて遅まきながらやっと気が付いた。
使用哲学を学び直していてエピクロスっていいなと過去に思ったことがあるがまた思い直している。
ソクラテスのアカデミアやアリストテレスのリュケイオンなどで学んだ後、政治の混乱期に嫌気が差してアテナイの小さな庭付きの家に弟子たちと住み、社会から「隠れて生きる」ことを信条にしてアタラクシア(平静な心)を求め精神の自由を史上の快楽とした男である。
そういえば、ウチの人が金原ひとみの『アタラクシア』という本を読んでいるようで、本のタイトルからしてとても気になる。ギリシャ哲学とかエピクロスとなんか関係あるのかな?と思っているが、たぶんあまり関係はないのだろう。
思想で社会を変えるとか解釈次第でどうなるものかとかそういう考え自体がなんだかおこがましい。
自分が自分に対して過信している。まあ、その過信も大切だとは思うし、たぶんその過信が無くなることが老いるというのだろう。別に老いた後に考えが変わるのは悪くないと言うかある意味それはそれで行き着くのは必然なのだろう。面倒くさいことから逃れるには許せない自分と和解をするのが手っ取り早い。
いずれにしても、養老孟司の思想も80前とそうでない時の思想って微妙に違うのね。別に養老孟司の思想を期間で分けようなんてことはするつもりはないけど。
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