この本が画期的なのは、人は動物や昆虫より劣っている点があると書いてあることだ。
バカは人類の宿痾
人類を発展させてきたコミュニケーションを真っ向から否定する人たちもいる。それこそが、「バカ」という存在だ。
自分と異なる同一性を認めないので、「バカ」はコミュニケーションが成立せず、ただただ他人の「自分とは異なる同一性」を攻撃することしかできない。それが非常に厄介なのは、虫や動物のように、生き延びるために合理的な判断をしているわけではなく、単に「違うものを同じだと見なす」という人間の特殊能力を下手にこじらせてしまった結果だという点にある。
誤解を恐れずに言えば、「バカ」というのは、人間が言語や自我というものを獲得したプロセスにおける「副作用」のようなものだ。人間の宿痾(慢性のやまい)」と呼んでもいいかもしれない。
『バカの災厄』(池田清彦)
結論から言えばこの本によって得られた利点は2つあった。
バカは人間が進化する過程で生まれるものなので、ほおっておくしかない。そのことは言わずもがなもちのろん。バカをほおっておくのは、ある意味で当たり前な対処方法なのだが、「バカ」は人の進化の過程で生まれるものであるから”しかたがない”と割り切って考えることで、腑に落ちた納得感が得られることがまず大事だと思う。これが本から得られた利点その1。
生物学者の池田清彦によりそのへんの話が簡潔にまとまっており、人間とは異なる生物がいかに合理的で人間が合理的ではない部分があるのかがこの本を読むことで明確になる。
…そうすれば、わざわざ転がっているバカを蹴り飛ばして跳ね返そうなんてすることは「バカのすることだ」と気がついて、自分がバカになることを防ぐことができる。
IQが高くてもバカになる。SNSでは調子づいてバカを発言しやすいということを踏まえて、自分の考えで行動を選択しないといけない。
繰り返しになるが、バカを見かけた時に放置するのはいいし当然だが…現代に生きているとどうしても運悪くバカにぶち当たってしまうことがある。
一番やってはいけないことは、バカな相手を説得しようとか教育してやろうというのは理念としては素晴らしいし、バカを無くす社会的な努力は報われるべきだと思うが、個人レベルでできるのはその場をうまく対処するのがせいぜいだろう。
バカはわざわざ難癖つけやすい人に近寄ってくるし、おせっかいな人はわざとバカの壁にぶつかっていきがちだ。
無差別テロを繰り返すバカに関わるのは、自己責任であることはもとより、バカに引き当たらない自助努力が必要な時代になったのかもしれない。
先にもいったようにバカとIQは関係ない。相手がバカだと思ったら、頭の回転が早かろうが学歴があろうが社会的地位が高い社長や上司や政治家や社会運動家や家族やいい人そうな一面もあろうが、関係なく、見切りをつけて去ったほうがいい。
なんならバカ相手にターゲットにされないように、こちらがバカを演じて価値がない人間だと思わせるように演じるのがベスト。バカのふりでも誰がどう見てもある種のバカになっても構わないが、とにかく目には目を歯には歯をじゃないが、バカにはバカのふりをしてリスク回避する。これが本から得られた利点その2。
まとめると…バカは生物学的な進化の過程で生まれ続けるから生きていればバカに遭遇する確立は減るどころか増えるが、バカに出会っても取り合わず相手に変わった人(ある種のバカ)と思わせてスルーすることが大切だ。
当たり前だが、スルーすることはできても自主的に避けるところまでやっているひとは、あまり多くはないのではないだろうか?というわけで、バカは自他ともに自主的に回避することが大事である。
バカに対処するサバイバル本として貴重な1冊だ。
要約
特定の概念が絶対に正しいと思い込む人は昆虫や犬よりもバカ。バーバリアン(野蛮人)の語源はバルバロイで「よく分からない言葉を話す人」という意味でありヨーロッパ人にとっては同じ言葉を喋っていないことが野蛮であり同じ人とはみなさなかった=バカ。
自我は言葉とパラレルでメタ認識ができるからこそ自我が保たれる。
生まれ変わったら猫になりたいという人がいるが猫には自我がない。猫になりたい=自我をなくしたいと言っているのと同じ。死にたくないのは自我があるから。認知症になったら死にたいという人がいるが、認知症が進むと自我が無くなるので死にたい気持ちがなくなり、未来への不安や恐怖が無くなるので、神様のご褒美だと考える人もいる。
賢い人は「とりあえず正しい」から入る。絶対的に正しいとは考えない。
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