日記|Falloutを見ているシーズン1-2。ゲームでの予習が必須だが面白い。

徒然草2.0

Fallout(ドラマ)を見ている。以前は初見で3人の主人公、ルーシー、マキシマス、グールによる三重奏(三視点)は意味不明な用語や描写が多くてついて行けない感じがしたが、Fallout3は分からないがFallout4で予習したおかげで、だいぶ状況が飲み込めるようになった。

マキシマスはBOSだったわけね。エンクレイブがどういう位置づけか分からないし、グールはカーボーイ俳優だった人で、一体何のために存在しているか今のところ不明だが、彼らの価値観が奇妙に交差する話になり興味深い。核戦争後の壊れた世界のイカレた愛すべきクソ野郎達のストーリーは大変よくできる。

⋯というよりマキシマスって結構危ないやつな気が?。ナイトを殺したし、デインを怪我させたのはマキシマスではないんだよね?彼の価値観がよくわからないんだけど。

今のところ現代人の感覚で見ていると全うなのはVolt住人であり特権階級の子孫のルーシーのみ。そのせいで核荒廃後のウェストランドでは疎ましく思われている。Fallout4でもVolt住人というだけで驚かれるが、そこまで歓迎されていないわけではないので、ちょっとびっくりした。それ以外のNPCは公平とか平等とか博愛とか平和なんて文明的な言葉を忘れたやつらしか持ち合わせていないらしい。それはマキシマスやグールにしてもそうらしい。

グール「自分が違う生き物になった時、同じことを望むかどうかかな?」とVolt-Tec社の訓戒?「DON’T LOSE YOUR HEAD(自分を見失うな)」がお互いに相反するので、これがFallout(ドラマ)のテーマなんだろうな。彼らの価値観は一体どのように変わっていくのだろうか。

fallout3とどれだけ関係するのか未だ不明だが⋯レイダーがバット(スワッター)をぶん回していたり、マキシマスがナイト・タイタンの従者としてアスピラントからスクワイアに昇進してベルチバードへ乗り込み飛行するだけの映像で感慨深い気持ちになる。ゲームから知らず知らず受けている経験が、ふわっと自分の中に蘇る感覚って、ゲームプレーヤーならではだ。まあ、それはさておき、ルーシーの住むVolt33にVolt32の住人の振りをして潜入した魔女モルディヴァーとは一体何物なのか。ルーシーにとっては父のみならず母を知る人物でもある⋯まだ分からないところがたくさんあるが、よくわからん組織を裏切った科学者のおっさん(ヴィルツィヒ)の頭に埋め込まれた何か?を手土産に、モルディヴァーの元へ向かうルーシーなのであった。

ドックミートは、ヴィルツィヒに何故か愛されて懐いてたのに、グールに弾丸とスティムパックを撃たれて、主人をあっさり変えるなんて生き方がうまいんだか裏切らないと生きてはいけないとはいえ鞍替えはえー⋯ゲームという感覚で風変わりしていくのを見ていないと人間の関係性がこのようにコロコロと転換していくので見ている方もそれにあわせないといけない。

ドラマでも映画でも、人と人との関係性が最初と後で変わっていくのに決定的なシーンがあってガラリとふつーは変わるけど、そのへんの描写をわざわざ細かく書かなくなったのか?

⋯書かないことで、視聴者の想像に任せているのか知らんけど、意図してやっているのか意図していないのかわからないし、私の映像の見方が古いのか老化したのか知らんけど、すごい切り替えがスピーディーだね。マキシマスもグールも表情ないから何考えているのか、日本人のワタシにはよく読み取れていないかも。

あとこれGameをやっていないひとに特に言えることだけどFallout(ドラマ)に「ついていけて、楽しめるの?謎だらけだよね?」そこんところにみんな引っかかりを覚えないのかよくわからん。

例えば、CMで入っていたバービーとか最近だとマイクラが映画かされたけど、バービーやマイクラの世界観を知らずとも楽しめる用に作られているはずだけど、Falloutはそのへんの配慮が足りてなさすぎるのGame感があって離脱しないで見ているとしたらすごい忍耐がもとめられる気がするが⋯そういうことにアメリカ人は違和感を覚えないのかな。ポストアポカリプス的な価値観がアメリカ人のコモンセンス的なベース知識なのかな。

徒然草2.0
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