日記|食わなんだら食えるもの

徒然草2.0

・『食えなんだら食うな』⋯「年が明けて、昭和四年。ひどい年だった。アメリカで株式の大暴落がおこり、これをきっかけにして、史上かつてない世界的大恐慌がすすみはじめていた。このあおりを食って、日本でも明示の新国家建設いらいの不景気になり、街には失業者があふれていた。「大学は出たけれど」という映画が大当たりし、それがまた時代のスローガンになったような時期だった。修行時代、野良犬にもなろうと覚悟した私だが、実際、その野良犬が巷を横行し、食えなくて死ぬ人もでていた。」ブラックマンデー(1929年)ってたかが100年前。アメリカの出来事みたいに思っているが、日本も相当影響を受けている。こういう話、もっと聞きたい。

・「食えなんだら食うな」本のタイトルは仏僧として勇ましい無頼な生き方だと思っていたらエッセイの最後でどんでん返しされて「食えなんだら食うな」で寺を飛び出してたら未熟者でダメで、もっと人と人とのつながりを大切にしていれば周囲とうまくいくし人間的に成熟していくよ「食わなんだら食えるもの」になるのだ、という話にすり替わってて何だかなあ(汗)となった。

・憲法には人権があるが、仏教は無我を解くではないか⋯なんか矛盾してない?人権意識と諸法無我は日常生活でしばしば同居せず。Chat-GPTにそのことを聞いたら「日常の倫理や社会制度としての「人権」と、深い自己認識や執着の克服をめざす「諸法無我」は、視点が異なる」つまりは層が違うので、相互運用が可能だという。まあ確かにメタ認識的にはそうだが、そんなの現代人の脳内都合だ。左翼右翼が呉越同舟するのと変わらないではないか。

・無垢な子どもに憲法という宗教をベースに道徳なるものを教えれば、歴史をリベラル視点で語るゲンダイジンが形成される。その人の性格にもよるが、自己尊大になりがちになる。自由教信者に仕立てられたからという自覚がないというのでは恐ろしい。

・楽しさ=楽にするとは、他人にやらせることではなく、自分でひきうけることではないか⋯楽をするというのは他人とか機械に任せることだと私たちは思っているが、自分のことは自分でやって他人の干渉を許さないということなのではないか。言われたからやる、お金をもらっているからやる、面倒くさいのでやらなかった、面倒くさいので他人に任せた、面倒くさいので自動化した。⋯現代のそこには自分でやっている楽しさがない。

・生きているだけで儲けもの⋯儲けたと感じるのは恥ずかしいというか、それを善いとするのは、その人の捉え方として良くないのではないか。生きているだけで儲けたと言っているうちは生き間違えるのではないか、とまでは言わずともこの言葉を反対にすれば「死んだら損だ」なわけだけど、死んだら損なのだろうか?お前は人が死んだニュースを見て「この人は損だなあ」って思うの?そもそも、命儲けは肯定されるが金儲けは肯定されないというのもおかしいもので⋯ただの現象ではないか。現象にあれこれと私たちが感情を乗せて動かされているだけではないか。

徒然草2.0
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