日記|若人よ人生を犠牲にしてやりたいゲームをやれ

徒然草2.0

・鬼滅の刃の映画「無限城編 』が楽しみです。

ちなみに、私は映画を見に行く予定はありません。人生で一度も買ったことない宝くじ「当たらないかな?」と妄想して嬉しくなるやつ。お金が減らないけど増えもしない妄想って、俺得だけど、誰の得にもなっていないと思うその一方、独りよがりで気持ち悪い気もします。胡蝶しのぶが怒るところ、アニメで見るのが楽しみです⋯というか、人が怒るって姿が素敵ですよね。と気持ち悪いことを素で言ったら共感してくれる友人がいてくれたらいいのにな、と思うこの頃です。

残念ながら、そんな人には出会いません。

⋯というか、怒っている人にキュンするのに共感する人に出会いたいって、どういう性癖か?自分でもよくわかりません。

でも、岡本太郎も言ってた気がしますが、喜怒哀楽の中で一番純粋なのが怒るなわけで、なかなか怒るを表面的に誤魔化してするような行為じゃないという理由で、一番本能に根ざしているというか根源的な感情という気がします。

まあでもストレスで短期的には生命の躍動な感じがしますが長期的には命を縮めるので怒るのはおすすめしません。と言っても私は生来人を怒らせる天才らしく、周りを怒らせて居て気づいたことなのですが。

「怒られているのに、悲しい気持ちの他に、怒っている人をみて、嬉しい気持ちが混じっている?」ちょっとちがうけどベルセルクのファルネーゼみたい。ムチ打ちの苦痛と異教徒諸兄の恐怖が身体的快楽と結びついてしまった系女子のようなもので、もっと調教してなおかつ大きく育てていかないといけない精神なのかもしれない。

こどもの頃、いや大人になってからもだが「姉が2人いる」というと羨ましがられることが多々ある。どうしてそのような妄想がオタク達の間に生まれるのだろう。「妹が2人いる」のほうがずっといいに違いないのに、と言ったら気持ち悪いのと一緒か。結局、当事者にしかわからないことがある。

年上の妹が存在(い)る可能性のパターンがいくつあるのか?を考えている。親が離婚して再婚する⋯離婚してなきゃ再婚できないから当たり前だが、それで再婚相手の連れ子が年上だったけど妹気質だったから妹になったとか。

プロ帰宅部と胸を張って言いたいが、そんな知識量があればラノベ作家にでもなれたはずで、いやそれが完全に思い上がりなのは承知の上で言っていますが⋯。小説を書きたい人と小説を読みたい人の需要と供給の曲線は分かっています。ただ人生のすべては嘘の上塗りだと言いたいのです。あんな人生他にもあったのになとメタ認識的に眺めていたほうが楽しいと言うか。

そんなことはさておき、テレビゲームは自分を育ててくれるという他愛もない主張をしたい。どんなクソゲーも自分の糧となり人生を豊かにしてくれる⋯はずだ(希望的観測)。

本を読みまくっても人生の糧になると学校の教師は言うのに、なぜゲームをやりまくっても人生の糧になると言わぬのか解せません。

どんな人にもいいところがあると考えて、あえて嫌いなやつのいいところさがしをするのが趣味だと言えば、いい人アピールと不思議な人アピールが同時にできるのに、趣味がクソゲーと言ったら、つまらないやつ確定のカースト最底辺まっしぐらになるのは、一体なぜだろう?

ファミコン時代、スーファミ時代、プレステ時代はよかった。まだゲームのあり方が定まっておらず自由にクソゲーが作られていた。今だとインディーズゲームがそれをになっているのかもしれないが、面白いものは垢抜けすぎているし、かといって無名のクソゲーは山程ある。クソゲーオブクソゲーは割と硬度で計算尽くされていて、専門用語で何と言うのか知らないがクソゲー界隈的なランキングというものがある。そこから論外・埒外にされたものは、むしろゴミだ。世間から見向きもされない。クソゲーにも流儀があり、その層から漏れた埒外はクソゲーですらない。昔はその層に壁がないわけではなかったが、壁に明確に隔てられ一緒くたにクソゲーというジャンルに分類されなくなり、今では一部のエリートクソゲーとそれ以外のゴミに2極化してしまった。昔であればクソゲーと親しまれたが、今じゃゴミあつかい。クソゲーを作って飯を食べようと脱サラしたが、自分が作れるのはせいぜいゴミレベルだと気がづいた。クソゲーは意外にも奥深いし、エリートクソゲーは神レベルで手が届かない。もっと人間やめないと超越できないが、人間やめたところで超越できる可能性は0に近い。Dioはいつだって俺達の悪のカリスマだ。私はクソゲーのために人間やめるほど、この世界に絶望できる天才じゃなかった。先見性がなければただのゴミ。最底辺。まだ誰もやったことのないジャンルであればクソゲーになれたのに。時代が過ぎるというのは何とも罪深い。

落日の旧日。小泉用語っぽくなっている気がする。もはや俺はなにがいいたいのだろうか。

ああ、そうだ。クソゲーと言えども色んなゲームをやっているとそれによって色々な感性が養われる。ゲームは人の出会いや読書により世界が広がるのと同じで、十人十色である。いかなクソゲーも名作も1人以上の人間が自分の想いなのかただの金儲けなのかはさておき考えて創った世界観にふれて何も得るものがないのだとしたら、何も得られなかった自分の問題だろう。どんなクソゲーにもいいところがあると言えれば、どんなクソ野郎にもいいところがあると言える寛容な精神が養われた証拠である。君も僕も無職転生おじさんになれるはず。

徒然草2.0
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