日記。カントの哲学。普遍性と一般性。

徒然草2.0

今日の学び。尾根を行く人生どっちに転んでも谷。

普遍性(universitas)

すべての人が守れなくても普遍性をもち、また、すべての人が守れなくても普遍性をもつこと。

理性それ自身が命ずる命令で、例えば「いかなる時にも嘘をついてはならない」など。

真実性の原理が幸福の原理を条件づけている状態を指す。

私の解釈だが、多くの人が守っていなくても守られないといけないこと。

一般性(generalitas)

多くの人が守っている、経験的なこと。

幸福の原理が真実性の原理を条件づけている状態を指す。

例えば「自分が不幸になる場合は嘘をついてもいい」ということ。

個人的な見解

これは「根本悪」に関しての考察で、カントは真実性の原理>幸福の原理とならないといけないと述べており、功利主義とは逆の判断をすることがある(というより、この話は功利主義に対するアンチテーゼである)。結果が良ければすべてよし、とカント哲学では云わない。ある種の頑迷さがカントの道徳律にはあるのだが、迷わず判断できれば悩むこともない。一般性に従わないと多くの場合は不利益を被るのでソクラテスと同様に変人扱いをされるだろう(損得を超えた正しさを貫けば尊敬される可能性も無くはない)ただ真実性に従うという判断は普通の人にはできない善い行いをするだけに留まるならまだいいが悪い行いをスルーしてしまう場合はどうなるのか。ナチスのアイヒマンは数百万人ものユダヤ人をガス室に送ったが、おそらく彼に良心が無かったわけではない。それを見たアレントは”悪の汎用さ”と言ったが別に特別に意味がある言葉ではない。平凡な男であるアイヒマンをただ指してそう表現したに過ぎない。アイヒマンは異国の極悪人でなければ、特殊な人物ではなく、良心を持った私達自身なのである。(とは言ったもののアレントの解釈はともかくアイヒマンって正常ちゃ正常だけど、個人的にはやっぱりちょっとおかしいよ)でも、悪は自分の中にあるものだし、それにどう私達がいや私自身が向き合っていくべきかは考えないといけない。いや、考えるのは当たり前だから、考えた上で究極の選択が求められたときに行動できるように予め決めておかねばならないのではないか。

参考資料

【参考】中島義道『晩年のカント』

徒然草2.0
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