戯言|生権力(せいけんりょく)

徒然草2.0

ミシェル・フーコーが見つけた概念だそうだが、ヘーゲルも似たようなことを述べているらしい。近代以前の支配者権力は「ルールに従わねば殺す」もしくは放置しておくというものだった。しかし現代(以降)は、「身体」や「統計的なデータ」をもとに人を支配する生権力が発達した。人々の自由が認められる一方で、国家には身体と背後にある統計的なデータにより巧妙に支配されるようになった。国家ないしは国家に準じる組織から抜け出して独自に生きることは野蛮への回帰であり、それは国民が誰も望まないので生権力に恭順することを必然的に強いられる。

特定の人物や階級が政権を奪えば問題が解決されるとするマルクス主義的な革命でも生権力の支配権が労働者へ移行するだけで本質は変わらず、同様に選挙で信用できる人を選ぶ民主主義的な仕組みでも解決しない。身体とその背後にあるデータによる権力により支配されることから自由になるには野蛮になるしかないが、身体を情報空間から切り離した生存権を確保することは一種のサンドボックス(砂箱=飼育施設)に過ぎない。監視の網から私達は逃れられないようになっている。サンドボックスの上にある野蛮は生権力の監視対象にされる。本当の無法地帯で現代以前の近代を志向する人々も例外なく監視される。

私達がもし真の自由を手にいれた!と感じることがあったら、それはまやかしの自由だと一度冷静になって自慰するのは辞めたほうがよい。

⋯⋯⋯考えてみれば、未来のSFはすべて現権力と生権力の比較によりカテゴライズできる。

具体的に現代社会とその未来で固有名詞を出すとすると、例えば中国が実現した中央監視型の社会がある。それとは別に台湾のオードリー・タンは、オープンな情報によって国民が権力者を監視するシステムを提案しているそうだが、それも国民が監視されていないわけではない。特定の階級に属することや特定の立場にあることで個人の幸福度は変わるかもしれないが、そういったことと今回はなしをしている権力性は直接関係がない。

そんな社会はディトピアだねと言ってクスッと笑っているうちが花。あいつは監視社会の不安症から陰謀論を唱えるようになり、とうとう頭がおかしくなったと憐憫の視線を向けられるようになる。しかしながらディストピア社会においては狂人であるほうが楽な気がする。

徒然草2.0
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