※創作です。
「調子が悪そうですね?」
目黒区某所、雨上がりの商店街をふらつくように散歩をしていたときだった。人影はまばらで、濡れたアスファルトの匂いだけがやけに鮮明だった。そんな中、濃紺のポロシャツを着た大柄な男に声をかけられた。
「あ、わかりますか?」
男はニコニコと愛想よく手を揉みながら、「すぐそこで整体、どうです?」と勧めてくる。正直、ぼんやりした頭で歩いているだけだったから、「急いでいるので」と断るには、あまりに嘘が透けすぎていた。
「いや、肩こりとかないんで……」と曖昧に返したが「肩こりじゃなくても、体の不調は姿勢に出ますよ。あなた、ちょっと猫背気味ですね? 初回なら30分3000円。お試しにはちょうどいいかと」
半ば流されるように、男が案内する雑居ビルの2階に上がる。入口には黒と赤の中国風の看板。漢方、気功、拳法、マッサージと、なんでもござれのラインナップ。妙に異国情緒が漂うその雰囲気に一瞬怯みつつも、価格も手頃、客もちらほらいたので、昼間だし大丈夫だろうと判断して中へ入った。
靴を脱ぎ、ベッドにうつ伏せになると、男は手際よく体をほぐし始めた。話題は天気やニュースから始まり、やがて仕事や家庭の話へと移る。何気なく口にした愚痴に対して、「最近、何か嫌なことがありましたか?」と問われ、つい堰を切ったように話し出してしまった。
仕事では常に我慢を強いられ、家庭では気を遣うばかりで気が休まらない。自分だけが苦労しているとは思っていないけれど、張り詰めた気持ちは身体をも固くしていた。
男は静かに頷きながら言った。
「そういうの、全部吐き出してください。悪いものは言葉でも体内の老廃物でも、体に溜めておくと毒です。外に出さないと、良くなりません」
その後、話は「気」の流れへと進んだ。私の体には、背中、胸、首にかけて“滞り”があるという。生命エネルギーが停滞し、宇宙からの低周波の波動が入ってこないのだ、と。
「体調を整えるには、“内気功”を身につけるといいですよ。自分の気を養い、それを“外気功”として他者に与える。たとえば、あなたにとって最もストレス源である——奥さまに、ね」
冗談めかして笑ったが、男は真顔で頷いた。
「もちろん、拳法を学ぶ必要はありません。呼吸とイメージ、数分で習得できます。今からお教えしますよ」
男に教わった動作は、簡単な腕の上下運動。大事なのは姿勢と呼吸、そして「宇宙エネルギーを取り入れる」イメージだという。内臓のバランスを整え、代謝を促し、胃腸の働きも良くなって、ついでにダイエット効果もあるらしい。
私はこういう“何かを教わる”と、すぐに真に受けて極めたくなるタイプで、帰宅後、風呂上がりに早速実践してみた。空から温かなエネルギーが降り注ぎ、それと自分の気がシンクロする……ような“気”がした。いや、きっと気のせいだ。
そこへ、妻が脱衣所から顔を出し、不機嫌そうに叫んだ。
「いま何時だと思っているの?まだ変な体操やってんの!? さっさと風呂入って!!」
その怒りに満ちた声を聞いた瞬間、私はとっさに“外気功”を送ってみた。慈しみと癒しの気を、彼女の背中へ向けて、そっと。
……しかし、彼女の表情はますます険しくなった。
「なにその顔、気持ち悪いんだけど!」
気功は、どうやら気まずさには効かないようだ。
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