戯言|成功と栄光に金をかけるな

徒然草2.0
Full length portrait of red haired teenage boy playing video games while sitting on floor and holding gamepad, copy space

岡田斗司夫が何かの動画で言っていたが「幸福(幸せ)」と「満足」と「成功」と「栄光」のいずれか1つ欲しいとしたらどれ?という質問があった。

どれでもいい気がするが、自分の場合は成功か栄光かな。

岡田斗司夫も成功か栄光を得たいと考えていると述べていた。

というか、ふつうはそうなるし、自分が求めているものが成功や栄光にならない人は、あまり人の目に見えるところへ現れない人だと思う。1つ1つ考えてみる。

幸福について

「幸福」については、よく分からない。自分が幸せかと言われれば、まあなんとかそこそこ健康に生きているので一般的に幸せな状態だと思うが、別に日々幸せだーとか感じません。そもそも幸せを基準に生きていません。

幸福と満足について

「満足」も同様、ご飯を食べた時にしか使わないので、それを人生に当てはめるのは抵抗がある。ミルは「満足な豚より不満足なソクラテス」であるべきみたいに言っている。自己満足という言葉にしてみれば、自分に使う場合は謙遜でしかなく、他人に言う場合はバカにして使う言葉でしか登場しない。哲学界隈と自己啓発界隈では「私たちは幸せになるために生きている」みたいな言い方は有り前にされており、他人にそんな同意をもとめられたらとりあえず「そうだね」と言わないと話が先に進まないから同意するけど、本当は違うよなと私の場合は心の何処かで思っている。大衆向けに使われる言葉であって自分が考えるための言葉じゃない。そこらへんの花嫁(親族でも赤の他人でもいい)に向かって「幸せになってね」と決まり文句で言うけど、自分が「幸せになりたい」とは思わない。偏見かもしれないけど、女性なら自分に言っていいと思うが、男性が「俺は幸せになりたかった」みたいなこと言っていたら、なんだか他責な感じがしてひく。「僕は幸せだぁ」と言っているならわかるが、おめでたい認識だなと思い斜に構えてしまうかも。というのは幸せって自分の問題だから「ご勝手に!」ってなるし自分が介入する問題ではない。他人の幸せに寄与したくないとか共感したくないというわけではなく、そこに無理に入り込む必要ない気がする。自分とは違う価値観で生きている人だという気もしてくる。幸せに浸る文化が自分の中にないのかな。ああ「幸せ」って感じたら次に来るのは「不幸せ」な気もして平均的に地ならしするクセもあるかもしれない。もしくは「快感」に近いもので、好きなことに集中するとかそういうのは「快感」かもしれないけれど、他人にあえて晒すものではないというか、基本的に自分ひとりで噛みしめるものな気がしている。もともと、わかちあえないものを、他人に公表したり共有する意味はあるのかな?という気がしている。

幸福になるべきか?

スピリチュアル界隈だと、自らは幸せになれないという思い込みは一種の抑圧であり否定される。「自分は幸せになってはいけないんだ」という思い込みから自由にならないと「幸せになれない」ということで、まあそれはそれで一理あるとは思う。まずは「自分は幸せになっていいんだ」ととらえて、自分の硬直した考えを改めさせたりするけど、その一種の抑圧って自分のアイデンティティであって、無理に剥がすと自分が壊れる可能性もあるから辞めたほうがいいんじゃね?と思う。ある種の鎧をまとっているのに、それをとっちゃったら確かに開放感はあるかもしれないけど、防御力下がりますけど?物事にはメリットとデメリットがあるの分かってる?悟りて覚者になるってことは、失うことでもあるけどその危険性、本当に分かっている?自分の身体から心臓をとったら苦痛から開放されると同時に死亡します⋯分かっている?と、生物的にも医学的に当たり前なことを言っているだなのだけれど、そのアタリマエのことが分かっていない人がいるのではないか。とくに心の問題は他人にには見えづらいから、なおさらアタリマエのことがわかりにくい。

成功と栄光について

この前にXで某ニュース記事に返信した⋯人に評価されるのを狙って投稿はしていますが、5000以上のいいねをもらった。一応これは他者評価なわけで、成功ないしは栄光に近いのではないか。「マンバズ=栄光が得られた」というのは大げさというかおかしいのだけれど、あくまでそんなものを得たことがない人が「成功」や「栄光」疑似体験しているとすれば、そんなところになるんだろうということを想像しているだけだが⋯成功や栄光には他人を蹴落としているのかそれとも他人に褒め称えられているのかはさておき、この2つは他者がいないと実現できないという特徴がある。自分が成功だと思っていれば成功だみたいな自己完結する定義もなくはないが、通常は他者を必要とする社会的なものだと言えるだろう。

まとめ

「幸福」⋯自分がそう感じていること

「満足」⋯自分の欲が満たされていること

「成功」⋯ある物事が他人よりも上手くいくこと

「栄光」⋯ある物事が他人よりも上手くいき褒められること

どれが高次であるか?は社会的評価も絡むし単純化できないが基本的には、言葉ですでに述べている通りで「幸福<満足<成功<栄光」の順に難易度が上がる。

おわりに

言い換えれば、幸福は単純で低次元な話なのだ⋯であるから「悪いもの」というわけではないが、単純な快と不快の狭間で生きている赤ちゃんのほうが、傍から見てもはっきりする。赤ちゃんは大抵、笑っているor泣いている、のいずれかだ。

本題にはいる

…こっからが本題というか自分の考えだが、、、私たちは「成功」その先にある「栄光」を手にれたい生き物だ。

でも、これらはそう簡単に投資したから得られる類のものではない。自分の行動の先にあるかもしれないが、金をかけたり努力したから得られるものでもない。起業して成功する場合は資本があれば有利になるから、あながち金をかければ成功する可能性は高められなくもないが、モノを売るにしても誰かに出資してもらうにしても、信用の後にお金がついてくるものだとすれば「お金」は重要ではないと言っても過言ではない。これは成功した真っ当な起業家も「そのとおりだ」と言ってくれるはず。そういう人が自分の周りにはいないけど⋯。ああ、自分に人望がないからだな。

だから、これは私なりの処世術ではあるけど「成功や栄光を私たちは求めるけどそこに投資をするという考えは間違っているのではないか」逆に低次元な幸せや満足の方が、お金をかけたら得やすいだろう。成功者や栄光者は、カッコいい自動車、高層ビルの夜景、大量本をバックに成功哲学を語る、みたいなことをして私たちにそれらを素晴らしいものだと訴えかけてくるが、ああいうのって昔憧れた部分は自分にもあったけど、どこか違うなと思っていたし、今見るとダメだ。そのダメな理由はもう語った通りで、社会的成功は他人からの称賛によって着飾るものであって、そういうものじゃないから。まだみんなでにこにこした空間で集合写真をとっていたりセミナーしているほうが成功者と言う感じがします。でも、それってやはり他人がいることだから、万人が得られるものではないので、お金をかけて訓練してイメージして得るものではない。

「万人が得たいものだけど物理的には得られないものだ」と悟ることが成功とか栄光を求めている人の出発点にならないのではないか。そうでなければ、いつまでも虚像を追いかけることになるのではないだろうか。「自分なりの成功を手に入れる」って矮小化して、からただの充足感を得るつまりは満足だったり幸福と解釈だったりする。「人は何にでもなれる」とか「人には与えられた運命がある」とか…似たようだけど、これらは似ているが結構ちがうものだ。すべては虚像であり、虚像を追いかけている可能性がある。私たちは虚像にお金をかける生き物ではあるのだが、ほどほどにしておいたほうがいいのではないだろうか。お金は自分や他人の苦痛をやわらげることには使えるという意味では人を救うことはできるが、それ以上にはあまり使えない。

徒然草2.0
スポンサーリンク
シェアする
gomiryoをフォローする
ごみぶろぐ

コメント

タイトルとURLをコピーしました