資本主義と共産主義のどちらを選ぶか?と聞かれると、答えるのは難しい。とりあえず資本主義と回答するが、かつて日本は「成功した社会主義(共産主義の前段階)」だと言われていた時期があった。経済格差が少なく、国民が豊かさを享受していたからだ。だけど、これからの日本は、もうそうも言っていられないのかもしれない。
貧しくなりたくないし、貧しい人が増えるのはよくない。経済は「よくあるべき」で、みんなが貧しい社会のほうがいいなんて言っている学者もいるけれど、正直それはとんでもない話だ。その学者は本当の貧しさを知らないのだろう。彼らはデータでしか見ていないし、フィールドワークをしていても結局は“第三者として見ている”だけだ。
YouTubeを見ていると、なんでこんな極端な人ばかりなんだろうなと思う。極端じゃないと面白くないからだが、基本的に成功者ばかりが集まって社会を語っている。社会の底辺の話もネタでしか扱われないし、「普通の中の普通」は価値がないと切り捨てられる。でも、実際のところ世の中の人は「普通の中の普通」で生きているのに、まるで“普通”が存在しないかのように扱われてしまうのが不思議だ。
右翼とか左翼という言葉がある。フランス革命の時に、市民革命を志向する人たちが議会の左側に座っていたことが語源だけど、そのうちマルクス主義や共産主義を指すようになった。今ではもう、誰がどの立場から見るかで意味が変わる、相対的な言葉になっている。より改革的で自由を求める立場を「リベラル」と言い換えることもあるし、政治的リベラルと経済的リベラルで意味も変わる。概念としては、もはや複雑で多層的だ。
一方で、根拠もなく相手をバカにして「パヨク」だの「ネトウヨ」だのとレッテルを貼る人たちもいる。そうなると、自分の立場をその場のノリで変える人まで出てきて、もはや言葉遊びのようになる。いっそ「サヨク」も「ウヨク」もないことにして、個別の政治的な事象ごとに、賛否の理由をつけて話したほうがよっぽど正確に伝わる気がする。のでウヨクやサヨクなんかない!のほうが理解できる。
ただ政治は二項対立で語られる。けれど、実際の社会はグラデーションがある。多くの場合は併存できるものが多いと思うし、日本人ってそもそも“併存させる”ことでバランスを取ってきた民族じゃないだろうか。もちろん、きれいごとだとも思う。でも、対立する意見を一段引いてメタ的に見て、両方を成立させる視点を持たないと共存なんてできない。共存できなければ結局パレスチナとイスラエルのように、争いが続く。誰も得をしない。だったら、どちらかを選ばずに「両方ある」状態を認めたほうがいい。それだけのことなのに、なぜこんなに難しいんだろう。
「特攻作戦はすべて悲劇であった」と言っていた人がいた。たしかにそうだと私も思っていたけど、一方で彼らの有志を称えたいという人もいる。けれど「称えた時点で戦争賛美になる」という人もいて、そこでまた対立が生まれる。「すべて悲劇」としたい人は、そうするために「強制だった」「必ず死ぬ任務だった」「作戦として無意味だった」といった情報を積み上げていく。でもそれでは、「日本のために散った」と思う遺族の感情とは埋めようのない温度差が生まれる。
結局、二つのうちどちらかを選ばないといけないという前提そのものが、対立を生んでいる。でも、対立を嫌うから「全部悲劇」と決めつけるのに、結果的にまた対立が起きる。なぜだろう。なぜ、こういう問いかけは届かないんだろう。
どちらの考えも言葉としては対立していても、人の心の中では両方成立しうる。そう解釈すれば、言葉の上でも共存できるのに。両方の概念が併存している、という状態をなぜ受け入れられないんだろう。
私たちはコンピュータじゃない。
だから、0か1かでしか考えられないような二項対立に縛られる必要なんてないのに、なぜか私たちは「コンピュータでありたい」かのように、白か黒かで決めつけたがる。人間なんて、もっと曖昧で、複雑で、矛盾だらけでいいはずなのに。
それを受け入れられなくなったときに、いちばん人間らしさを失うんじゃないか――そんな気がしている。

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