戯言|厭世主義と懐疑主義(ショーペンハウアーとヒューム)――世界をどう見るか?

徒然草2.0

私たちの身体は、ただの感覚の集まりではない。それは「客体(object)」であり、「表象(representation)」でもある。つまり、私たちが世界として経験しているものの一部であり、他のすべての客体と同様に、時間と空間という認識の前提条件に従い、因果律に支配されている

ショーペンハウアーは、ここで重要な点として「直感(Anschauung)」の役割を強調する。直感とは、単に感覚的な反応ではなく、悟性(Verstand)という知的能力を通じて働く認識のプロセスである。私たちは、目の前で何かが起きたとき、単にそれを感じ取るのではなく、「何が原因なのか?」と即座に推論しようとする。つまり、「結果」から「原因」を認識するという形で、世界を理解しているのだ。

これはデイヴィッド・ヒュームの懐疑主義と真っ向から対立する考え方だ。

ヒュームは、因果律とは「何度も繰り返された経験」から学ぶものであり、それ自体に必然性はないと考えた。つまり、彼にとって因果律は経験に基づいた“習慣”にすぎず、「この現象の後にはあの現象が起こる」というだけの経験的な結びつきだった。

しかしショーペンハウアーはこうした立場を「間違った前提から出発し、間違った主張に至っている」と一蹴する。彼にとって、因果律は経験から導き出されるものではなく、むしろ経験の前提そのものなのだ。

私がヒュームの懐疑主義にひかれるのは、すべての現実的な問題を疑いへと還元できるところにある。それは世界を“どうせ確かなことなんて何もない”と見る冷ややかでリアルな姿勢だ。だがショーペンハウアーはそこから逃げるどころか、それを正面から受け止め、世界そのものがペシミスティックな構造をもっていると考えた。そして、「では、そこからどう逃れることができるのか?」という問いに本気で向き合おうとした。

よくある価値観の議論――「勝ち組と負け組なんて人それぞれだよね」といった甘い相対主義――には、彼は一切興味を示さない。人生とは苦であり、欠乏であり、欲望であり、それに支配されているというのがショーペンハウアーの出発点である。

彼はまた、「結果から原因を導く」という私たちの知的な直観のあり方を、「ユニークな考え方」として軽く片づけたりはしない。それは人間の認識の土台であり、それを否定するような立場(ヒューム的懐疑論)は、彼にとっては“ゴミのような考え”に見えるのだろう。

こうした考えは、いわゆる「陽キャ(楽天的な人)」には理解されにくいかもしれない。彼らは、ショーペンハウアーの厭世的な見方に違和感を覚え、「もっと前向きに生きれば?」などと言いたくなるだろう。しかし彼からすれば、その楽観こそが現実を見ようとしない盲目の状態に思えるに違いない。なぜなら、彼にとってそれが世界の本質であり、「表象」としての世界の実体だからである。

さらに重要なのは、ショーペンハウアーが「主体(主観)なくして客体(世界)はあり得ない」と考える点だ。つまり、主体(私)という認識の立場がなければ、客体(世界)も存在し得ないということ。世界はあくまで主体によって表象として捉えられており、それは永遠に主観によって条件づけられている。そこから完全に自由になる手段はない。

哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(前期)は『論理哲学論考』の中で、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と語った。だがショーペンハウアーは、美、死、芸術といった“語りえぬもの”についても真剣に語った。そしてそれによって、私たちがそれまで当然と考えていた「世界の見方」自体を根底から揺さぶってみせたのだった。

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