戯言|リバタリアンと無政府主義者(は嫌い合う)

徒然草2.0

インターネットでたまに「私はリバタリアンだ」と言っている人がいるが私はその人をあまり信用することができない。

リバタリアンという立場が矛盾する(1)か、リバタリアンという認知が間違っている(2)。

リバタリアンという立場が矛盾する(1)というのは、家族や地域社会、会社組織、国家でもなんでもいいが、ある種の共同体なのか国家なのかもしくは超国家的な意思でも何でもよいが、人間はそういうものに属していないと生きていかれない部分が残るのにその部分を無視している。無視してはならない部分は物質的面にも精神的面にも残る。また、万人がリバタリアンであると、その人の生活やスタイルが成立しない。結果的に、リバタリアンという認知が間違っている(2)ではないか。

⋯まあこれは、みんながみんなリバタリアンになるべきだと思っていないとか、極力そういう個人の自由を束縛するものないことを望んでいるだけですべてなくなればいいと思っているわけではないのよ、とでも一言添えれば(1)の矛盾と(2)の間違いは回避できる。

ただし、みんな僕のように生きればいいのに、と矛盾したことを言うことがある。聞いているとイライラする。そのくせにリバタリアニズムが世界に浸透すべきだとは言っていない、と言って誤魔化す人もいる。

彼らは基本的に生き方が上手く、頭が良い。一見どこか魅力的に見えて、陽気な部分もある。

小さい政府や組織を望み、福祉制度を嫌い弱者に対する想像力の欠如がある。どこか自分勝手な部分があることが多い。彼らを右派リバタリアニズムと言うこともある。右派があるということは左派がある。その右派リバタリアニズムよりも劣るか優るかはさて置き、おそらく右派リバタリアニズムは左派リバタリアニズム(≒無政府主義者)を、自分と何処か共通点を認めながらも、アンバランスで偽善的な考えだと嘲笑する。

⋯と私は思いこんでいる。思い込んでいると思い込んでいる認知がある。少なくとも彼らと似ているようでまったく相なれない。

ある種の共同体や国家は不要だと思うが、それらを直視せずに生きている。私の場合はある時、急に国家主義ないしは超国家主義に取り憑かれたりもする。 国家的なものや宗教的なものを憧憬しながらも誰かから命令を受けるのが嫌で自分本位でそれを取り入れる。

端から見るとそれは頭がオカシイ意外のなにものでもないが、たまにバランスが取れている人もいる。私の場合は単にアンバランスである不協和音が鳴り響いているだけだが、アンバランスなのは思想の問題ではなく、アタマの作りの問題なのだろう。

それはさておき、左派リバタリアニズムの人は自ら「私はリバタリアニアンだ」とおそらく言わないため、世の中で「僕はリバタリアンだ」という人がいたら十中八九それは右派リバタリアニズムである。(例外があったら教えて欲しい)で、この記事で1番何がいいたいのか?ということなんだけど、別になにか主張があったわけではなく別に悪口というか決めつけしたいわけではありません。強いて言えば、同じリバタリアニズムでも無政府主義を志向する人は「左派リバタリアニズムと似ているようで相なれないんだよね」ということだけ。

たまに「あなたと同じような考え方をする人がいる!」って言われることがあるけど、それは右派リバタリアニズムであり、私のような極端な左派リバタリアニズムではないのです。ということを悶々と感じることがあって、でも同じものに聞こえる人にそれは違うんだよ、としつこく言うものではない。

⋯もっと言うと、同じ左派リバタリアニズムでも意識してか、超福祉的だったり完全共産主義的だったりして相なれません。

同族嫌悪って言葉もあるでしょう?と言えば通じるかな。

⋯そんな人間と付き合うくらいなら、保守主義者のほうがずっと信用できる。しかし保守主義のある側面を否定しているからこそリバタリアンなのであって、そこでも矛盾が起こる。最近、矛盾を葛藤と言い換えたほうが聞こえがいい気がしている。ものはいいようか。

徒然草2.0
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