学問の分野は何でもよくて、ただ「大学で学問を積んでみたい」と思うことがある。でも、日本史の先生や教授が「歴史を学ぶのは過去の偉人の成功や失敗から学び、現代に活かすためだ」と語る場面に触れるたびに、どこか引っかかる自分がいる。その一方で、彼らが「歴史が好きで好きでしょうがないから学ぶんだ」と語り、それに学問を積んできた人々がうなずいている光景を見ると、「本当にそうなんだろうか?」という疑問が湧いてくる。
もちろん、疑うのも変な話だ。でも、そう言っている人たちは、ある程度「学問が自分や社会に役立っている」と実感できる立場の人なんじゃないかという気もしてくる。そうでなければ、貧乏で暇もなく学問なんてやっていたら笑いものになるだけじゃないか、とさえ思えてしまう。
もし、心から学問に喜びを感じている人がいるとしたら、それは本業や家庭に余裕がある“リア充”な人で、学問を趣味として楽しんでいる人なのではないか。やっぱり、学問ってどこかに役立つ見込みがなければ、ただの苦行でしかない。もしその見込みすらないなら、それに打ち込むのは少しマゾヒスティックで、どこか異常なようにも思える。
けれど、じゃあ「好きじゃない学問」は全部偽物なのだろうか? さすがにそこまで極端に言う人はいないだろう。好きじゃない部分も抱えながら、それでも研究を続けている人もきっといるはずだ。
それにしても、「なぜ学問は無条件に肯定されるのか?」という疑問が、湯気のようにふつふつと湧いてきてしまう。これ自体が、自分の学問に対する考え方が相当複雑だという証拠なのかもしれない。
学問にはどこか「投資」の側面があって、労力をかけた結果が何も返ってこなければ、やっぱり無駄だったと感じてしまうこともある。もちろん楽しいことがないわけではないけれど、楽しいばかりではなく、時に苦痛を伴うのも事実。そうした苦痛があっても気にならない人こそ、学問に向いているのだろう。
一方で、学問が社会や他者、自分自身に何らかの形で活かされることもあると思う。もし仮にベネフィットがまるでなく、自己満足にさえつながらなかったとしても、それでも自分を責めず、他人に理解されなくても怒りを感じないなら、それはそれで構わないんじゃないかと思う。逆に、何の成果も見込めないのに鬱屈をためてしまうようなら、それはとても不健全な学び方かもしれない。
少し大げさに書いたかもしれないが、今の自分が抱えている、ある種の欲望や迷いを率直に吐き出してみた。自分と似たような葛藤を持つ人って、意外と見つからない。でも、それもそのはずで、こうした悩みはとても複雑で、何かを言ったと思えばすぐに打ち消すような思考回路になってしまう。
学問や研究の成果が出ないことに悩んでいる人や、経済的な事情で学問を諦め、やりたいことを断念して就職した人、あるいは自分の能力に限界を感じて悔しさを抱えている人——そんな人たちがいることは分かるし、自分はその前段階にいる気がする。学問を志す理由自体が、あまりにも支離滅裂で分裂的なのだ。
単純化すると、こんな感じになる。
——学問は社会の役に立たなければならない。
→ そう思う。でも、自己満足でもいいとも思っている。——学問は「好きだからやる」ものだ。
→ それも正しいと思う。でも、実際は嫌なことも多い。
こんなふうに、相反する考えが短いスパンで頭の中を行き来して、どこにも着地しない。何かをしてみたい気持ちと、何もしたくない気持ちが同時に存在していて、それがバランスを欠いている。とはいえ、いつもずっと考え込んでいるわけではなくて、気づいたらその思考は過ぎ去っていて、何もないような状態になっていることもある。
学びたいという気持ちは「あるかないか」で言えば確かにある。1日のうち一瞬だけ熱意がある。けれど、それが常にあるわけではなく、普段は基本的に無気力だし、気づけば違うものに目移りして、全然別のことをしている。そう考えると、世間的には「学習意欲がない」と見なされるのが正しいのだろう。
そんな自分にできることといえば、「物事を疑ってみること」くらいだ。だからこそ、私は自分のことを“懐疑主義者”と名乗っているのだろう。
もっとシンプルに物事を捉えて、スッと答えにたどり着けるような思考ができたらよかった。でも、ないものはしょうがない。そういう頭を持っていないのだから、無理に望んでも仕方がない。
ひとつだけ言えるのは、「学問だけが無条件に肯定されるのは、やっぱりちょっと変なんじゃないか?」ということ。でも結局、そうやってあれこれ条件を並べて考えすぎてしまうのは、学識者や世間の価値観に翻弄されてきた、自分自身のせいかもしれない。
そもそも、この世に無条件で肯定されるものなんてあるのだろうか。強いて挙げるなら、宗教の世界における「神」くらいかもしれない。でも、そんな疑い深い自分が、宗教家にも信者にもなれるはずがない。
もし自分に「救い」と呼べるものがあるとしたら、それは自分の中に、反発する自分や、好き勝手に振る舞う自分がいて、常にうるさく騒いでいるということくらいだ。でもそんな騒々しさは、社会生活の中で何の役にも立たず、むしろ厄介なだけだ。
……救いが「厄介なこと」だなんて、そんなふうに感じているのは、この世で私ぐらいなのかもしれない。
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