松蔭、平戸へ遊学、もとい留学?。
九州の土地勘が、全然わからない。小倉城、いちど私も行ってみたい。というか福岡は素通りしかしたことがないので、ちゃんとぶらぶらしてみたい。筑前人と佐賀人の違いとかあるのか。
…平戸ってそもそもどこだっけ?(九州の左上隅みで、歴史小説には登場するけど、観光地としてはたぶんあまり何もない)
儒学者・葉山左内のもてなしを受け、娼妓付きの宿に泊まるも、左内に借りた書物を書き写すのに忙しく、酒も酌まず娼妓も抱かず夜を過ごす変人っぷりが素晴らしい。
その後、江戸に遊学に出る。松蔭に友人ができ、共に東北旅行へ行くため、長州藩を脱藩することになる。
友人の一人は宮部鼎蔵(みやべていぞう)、池田屋事件で新選組に襲撃にあい死亡する人物。もう一人は江幡五郎(えばたごろう)、盛岡藩の儒学者になる人物。兄が謀殺された仕返しに松蔭に助けを求めたとか求めなかったとか。
脱藩は一族に罰が及ぶ連帯責任制の大罪だが、来原良蔵(くりはらりょうぞう)が松蔭に脱藩を進めた、と罪を被ることで一時事態を収拾。しかし父兄は罰せられる重い刑罰である。松蔭の思惑は甘かったと言わざるをえない。松蔭の友情話は司馬遼太郎の創作だろうが、年上の友人ら奥羽旅行へ行くのに手続きの不手際で一緒に行けないなどと始末をつける気は松蔭には毛頭なかっただろう。また脱藩の罪を当時は松蔭も些細なことだと思ったということもあったのだろう。
そういえば、話は現代に戻るが、自民党総裁選では高市早苗が選ばれた。彼女は「教育勅語」を積極的に活用したいらしい。戦前回帰だという批判もあるが、まあそれも一つの考え方だろう。
個人的に興味深いのは、教育勅語の中に「友情」についての一節があることだ。明治・大正期には「横の関係」を重んじる思想が広がったといわれているが、教育勅語もその時代の空気を汲み取っていたのかもしれない。
江戸時代には藩を越えて人が交わることが難しく、地域を越えた友情は育ちにくかったという。そんな中で松陰をはじめ長州の人々が築いた横の絆には、どこか特別なものがあるらしい。
友情論というと少し気恥ずかしいが、国が人と人との結びつきを大切にしようとする姿勢は、悪くないと思う。「死に至った友に会いに行くことが戦争につながる」といった批判もあるかもしれないが、そうした情が薄れていく社会が本当に良いのか――そうも思えない。
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