戯言|「私たち仲良しです」とは一体なんなのか?-友情・仁・フィリアとか仲良しを支える見えない前提はなぜ疑われないのか-

徒然草2.0

芸能人のトークショー番組とかでも芸能人に限らず一般人でも何でもいいけど「私と◯◯さんプライベートでご飯食べに行くくらい仲良しでー」みたいなのってあれなんなんだろう。別に自慢とかではないだろうし、リスペクトや社交辞令もあるのかもしれない。第三者がそれを聞いていて話が膨らむわけで願ったりだし、それよりも、人と人が仲が良いことは悪いよりはいいことだ。それはそれで、たぶんあまり深い意味はないのだろう。それを今から問おうとする私とその行為も、一体何なんだろう?って気はするんだけど、でもだからこそたぶん意味のあることなのではないか。

人間っていうのは割と普遍的に、一人でいたいと思うこともあれば、誰かやみんなと一緒にいたいと思うもので、そのへんのバランスをとって生活しているわけで、それは百も承知で、俗な言い方をごく当たり前な人と人のすべての人間関係における、相性のいい人ってなんだろう?みたいな話でしかないのかもしれない。たぶん、私が言いたいことはそういうすべてひっくるめた上でのなんだろう?なわけだ。

…おもしろいかどうかはわからないけど、逆パターンで「私は一人の時間が大切でー」から話を広げてもいいわけだ。ただそういう話を真に受けたり面白い話をしないといけないとか思うと、それはそれで窮屈だと思う私がいる。なので、まあ仲良しってなんか「窮屈」だったりやがて失われる「無常」なものな気もしているが、たぶん世間の人はもっとポジティブな言葉で解釈しているはず。

若い人ならば、芸能人と同じノリで「私は〇〇さんと仲良しでー」と言うことはある気がするというか普通にそういう人がいる。年を取った男同士だと、あまり言わなくなると思う。まあ誰かと仲良しでいることが、なにかステータスのようなものだと思い込んでいる人がいて、友だちがいることがマウントになると思っている人も明らかにいる。それはそれで目的がはっきりしている感じがしていいけど、よくよく考えてみるとそうやって仲良しを維持管理しているのか自然な関係なのか知らんけど、その概念を疑わない姿勢っていうのは何でだろう?っていうのが個人的な疑問。あらゆる人間関係をどこか疑っているもっと言えば穿ってマイナス方面に考えてしまう時点で、私はそーいうのに向いていないと言えばそうだが。別に意識して苦手だと断言するつもりも別にない。

哲学においても、例えば古代ギリシャでは「フィリア」と呼ばれる友愛が重視され、それこそが至高の善とされることすらあった。フィリアとは、家族や仲間との間に生まれる信頼や親しみを基盤とした愛であり、人間社会を支える根本の絆と考えられていた。同じように『論語』に登場する「仁(じん)」もまた、他者への思いやりと人間愛を中心とする徳目であり、人と人とが生きる上で欠かせない規範として語られる。

けれども、この二つの概念に共通するのは、それがほとんど疑われることなく「当然の前提」として扱われている点である。仲良しであること、互いに信頼し合うことは良いに決まっている。そう信じるからこそ、誰もそれを裏返したり、引き伸ばして分析しようとしない。疑ったところで楽しくもないし、価値も見いだしにくいからだろうか。

結局のところ、「仲良しです」と表明することは、私たちが生きる社会における暗黙の基盤を確認する行為であり、フィリアや仁が示すように、それは疑いを超えて“信じられてしまう”ものなのだろうか。

…それは何故なのだろう?

というか「質問に質問で返すなッ!」という言葉がありますが、私はただ疑問に疑問を持っているだけなんだが?

徒然草2.0
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