KFCのマーケティング戦略が成功して、日本ではクリスマスにKFCを食べるようになった。
しかし、米国ではクリスマスに七面鳥(ターキー)の丸焼きを食べるのに、
日本人は鶏(チキン)を食べている。それに外国人は違和感を覚えるそうだ。
つまり、KFCは海外の文化を誤った形で日本人に伝えてしまったことになる。
…というか、クリスマスはキリスト教のお祭りで共同体時のための宗教的儀式である。
キリスト教徒が1%程度の日本人がイエスの復活祭として祝う必然はまったくないにも関わらず祝祭日として祝っている。
…が、間違いである時点でもはや個人的には惰性でもある。
惰性の祭りを祝うなんてバカバカしい…とか言うおっさんはいそうだが、
私は別にそういう事をいいたいわけではなく(怠惰ならそれはそれで無視すればいいはずだが)そうではなく、
もはやKFCを食べるためにクリスマスがあるのではないか?と思ってくる。
怠惰つまり面倒なことはネガティブな意味ではなく、できる限り楽しく自分にとって有意義に解釈したほうがいいという考え方である。
何の理由もないのに、KFCは買えないがクリスマスだと言えば免罪符になるかのようだが、まあそれでいいじゃないか。
卵が先か鶏が先かなんて野暮ったい。過去はマーケティングの成果で、KFCがクリスマスに食べられるようになったに違いないが、、
しかし、今は逆転した!クリスマスを後付の理由にして、私達はKFCを食べているだけなのではないかと思うのだ。
大人になると…というかそういうものとは無縁になってくると、クリスマスなる概念を思い出さなくなる。
思い出しても何も得をしない、というか、そりゃそうだ。繰り返しになるが、非キリスト教徒にとって宗教的儀式として重要なものではないからだ。
…ましてや独りで生きていれば尚更だろう。街に繰り出してショッピングモールを日頃から眺めていなければ、クリスマスを自覚しない。
そんな人間にとってクリスマスを思い出すとしたら、もうこれは、KFCでも何でもいいがちょっと美味しいものをたべる動機付けとしてのクリスマスになる。
というわけで、くどいが感覚的にはごちそう(KFC)を食べるためにクリスマスはある。
…それで何か問題があるのかと言えば特に問題はない。
「企業のマーケティングに踊らされて主体性のないバカな人間なのだろうか?」と考えてみるのはありだが、
主体的にKFCが食べたいだけだと思い込むのと何も大差はないだろう。
世間の空気に流されるのも流されまいとするのもそれを主体といい切ったもの勝ちだ。
(日本人にとって言葉の意味は、どっちが重要というものでもないらしい。流される主体性もあれば流されない主体性もある)
かくして、日本人の主体性なるものはない。(というようなことを養老孟司も言っていた気がする。そもそも個がないのだ)
社会主義者のデザイナであるウィリアム・モリスは社会が成熟したら、人類に残された仕事は「生活を飾ること」しかないと言った。
宗教的な儀式としてのクリスマスが形骸化したら、それこそ生活を着飾るためにクリスマスを理由にして部屋を飾ったりパーティをしてKFCを食べるのである。
一体それでなにか問題でもあるのだろうか?というわけで、
「誤ったマーケティング成果により日本人はKFCを食べるようになった」としたり顔してつまらない人がいたら、イキって言い返せばよい「私達は生活を飾るために(今を楽しく生きるために)自分の意志でKFCを食べているのである!マーケティングの成果で消費者がクリスマスにKFCを食べ続けているだって!?バカも休み休みに言え!消費者は主体的にKFCが好きだから、クリスマスを利用しているだけに過ぎない!」で結構じゃないか。
…と口を酸っぱくして言っても、きっとバカに扱われるのが日本という国。日本は言葉が通じない国だそうだ。
周りから見ている人がいたら、両者ともにバカかもしれないが、私達が乗り越えないといけないバカの壁。
最近、ふと手を組んで、神様に祈っている俺ガイル。神様は何も言い返してこないが、神様と交わす言葉は自分が主体的に読んで語っていることだけあって間違いがない。最近、神話の中で生きようなんてことを思っているが、多神教より一神教のほうがその点、メリハリがあってもいいのかもしれない。アーメン。そういう意味では、わたしは敬虔なクリスチャンになりたい。あとKFCが食べたい。
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