戯言。鬼滅の刃の中にある日本人の信仰。

徒然草2.0

まだマンガで全部読み終わっていないませんが…19巻まで読みました。あとはクライマックスがずーっと続く感じでしょうか。ワタクシ的な鬼滅の刃に関するメモを残しておこうと思います。

※ネタバレあり。

私が好きな鬼は半天狗

ちなみに私が好きな上限の鬼は「半天狗」です。徹底的に現実(事実)をを直視することを否定して自分の責任ではなく他人のせいにして罪を重ねてきた残忍な男ですが、この男に限らず鬼滅の刃に出てくる登場人物はみんな「現実から目をそむけて生きていたい」という願望というものを抱えている気がします。半天狗の場合は他責100%で物事を捉える異常性が際立っていて、自分が可哀想な人だと周りにアピールでる爺さん。生き方=考え方は変わらないので、首をぶった切るより他に手立てがないと誰もが納得したでしょう。これだけ同情の余地が皆無な鬼っていうのも、珍しい気がします。たまたま異常に自分のせいにできない弱さが結果的に残忍につながったので、言い換えれば「人間的な弱さはすなわち罪」でもあるという意味で、ただ残忍であるとかサイコパス的であるというのとはまた違う強さがあるのでは。逆に現実(事実)を直視する才能に長けているのは、無限列車編で一番に目を覚ました炭治郎です。半天狗に「責任から逃げるなあ」と言う資格がある。逆に柱と言えど煉獄千寿郎は自力で心地よい夢から目覚めませんでしたし、冨岡義勇や我妻善逸ですら記憶の何処かに直視したくない現実をずっとしまい込んでいました。そういう意味では「半天狗」は笑えないキャラで、誰しも半天狗的なところがあるのでは。…話が逸れた。本題に入る。

鬼滅の刃の要素は…非個人主義、能力主義、生死の超越、怒りの肯定

…マンガ『鬼滅の刃』を好む日本人という考察は探せばいくらでもあり、みんな好き勝手に書いているのだが、私的には単純に武士道の中に在るものが横たわっている気がする。短くまとめてみる。

・個人主義や人権はなく、圧倒的努力による徹底した成果主義を良しとする。

→自分の生き方を選びとった人たちは目的のためには死や個を超えなければなりません。

→能力がないやつは基本的にクズであり相手にされません。

・怒りの肯定…鬼滅の刃では怒りを肯定しています。

→恨みも正しい方向に向かっていれば行動力や力そのものの源です。

私なりの言葉でざっとまとめるとこんな感じ。鬼滅の刃が特別に「新しいか?」と言われれば別にそんなことなく、どこか懐かしい気持ちで読める国民的アニメになったという感がある。ただ、似たような構図の話などいくらでもあり、特別な新しさは別にないので「つまらない」と言うひとがいても不思議ではない。

新しい武士道?

『葉隠』や新渡戸稲造の『武士道』は創作だとされており、それを日本の近代化に合わせて国民の兵役動員に利用したとして、それがいいか悪いかは別にして私自身の中に在って感応するがそれが現代風にアレンジされるとこうなるのだ。そんなわけで以前日本人というものは西洋主義的な人権や個人主義がいい意味で体ではわからないのだ。字面を追って理解できても心身に取り込まれず、個人と死を超越したところで時に激怒しながら苛烈な行動をとりたくなる。そういうことに意味やそして価値を見出すのが「日本人的」なのではないか?と思うことが在るが、それを鬼滅の刃は想い出させてくれる。人に言われてやるのは嫌だが、なんだかんだいって自ら進んで滅私奉公に身を投じることを日本人は良しとする。まあ、多少の形は違えどこれって人類にも通底する精神だと私は思っていますが。

今の時代にこれが流行るんだということは、別に昔も今も表現は違えど人間の精神性は変わってないってことなのかもしれない。

鬼滅の刃って、登場人物の人間関係の絆や未来への想いは重視はしているけれど、個人の原体験の方がずっと重要視されている気がするんだよね。基本的に他の人の視点も交じるけど、炭治郎の視点が中心に描かれている。人間関係の諸々は自らの目的を達成する過程で結果的に得られたものに過ぎずもっとも重視されるものではないように見える。(<私>がそう見ているだけだ、と言われればそれまでですが)

ちょうどいい感じで、思い出したように何度読み返しても面白いと感じたりすることができるし、子どもの情操教育にもいいのでは?なんて思っていたりする。

徒然草2.0
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