プログラミングをすることを、なぜかコードを書くという言う人がいる。
エディタでプログラミングしたコンパイル(変換)する前のデータファイルをソースコードと呼ぶから、まあ妥当だとは思うけど、プログラミング初心者でも「さあ、コードを書こう」なんて言うわけだけど、私には違和感がある。
なぜかというと、「脱コード化したくてコンピュータを学ぼうと思ったから」である。脱コード化とはジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリによって『アンチ・オイディプス』で展開された概念であるらしい。(それすらも忘れていた)たぶん言葉の使い方を間違えている気がするが気にせず行こう。行けば分かるさ(いや、わかんねーよ、迷ったことも分からず死ぬだけだ)。
超コード化:古代専制国家
脱コード化:近代資本主義
近代資本主義が肯定されうるものか、はさておき、ダイナミックな何か流れのようなものに身を任せる感覚で新しさに飛び込みたい。ただそれだけで肯定されるものだと思っていたのに、気がついたらコード化に一生懸命になっているというパラドックスに陥っていた。(そのことにはずっと前から気づいてはいたのだが)
良いコードはなにか?読みやすいコードである(リーダブルコード)。この場合はいかにコードを書くべきか?コードが完璧である(コードコンプリート)とはどういう状態を指すのか?仕事が上手く行こうが上手く行かなかろうが、向かう方向は1つで超コード化に突き進む。自分の生活のため会社の利益のため社会の発展のため、体の良い言い訳を考えてはみるが、自分が忌むべき秩序を支える支配のために、血を流している気がしてくる。
あらゆるIT系の会社は虚業だと思っていて、自分のしている生業も虚業だと思っている、だから株式投資をする時は進んでIT系の会社に投資をする。
「IT系の仕事しているもんで、IT系の会社の未来を信じているんです」ってなるべく目をきらきらさせて語れたら名役者だと自分でも思いましたが、虚から虚へ、金というこれまた虚だと思っているものを、流しているだけ。
人間は社会はそれを経済活動だといい、とても大切なものだと思っているらしいです。
その思いも虚だと思うのですが、そんなことを言っても拉致が明かない。まあ私自身はそう思っている。まあでも経済ストップしたら即、死なわけで経済が大事なのは分かるけど、経済というフィクションの上に自分は生かされているんだな。
…だから、人に理解されないとホッとする。ああ、よかった本心がバレずに済んだ。
理解されるということは、相手に見透かされているってことだから、人に理解されないほうが正しい。よく分からないけど「この人はITも金も好きなんだな」って思ってくれるくらいが丁度いい。
でも1回だけ、あなたのことはすべて分かっています「そうですね今はITはインフラで社会的な資産ですね」というようなことを言われたことがある。
この人、わたしの言っていることを瞬時に理解して同意して、とても頭がいいなと想うと同時に、もしかして醜悪な本心と知性の無さまで完璧にバレているのでは?
そうにちがいないと確信して怖くなった。ものわかりがいいひとが嫌いだ。わたしの心を不安にさせる。太宰治『人間失格』の主人公が竹一という子にわざと鉄棒を落ちたことがバレてしまった時と同じだ。
ああ、こんな仕事もう辞めてしまおう。辞職届になんて書くかな。「自らの醜悪な本心と知性の無さが完璧にバレたから」かな。これを略して「一身上の都合」と書くのが、日本の曖昧な退職儀式らしいと知った時ちょっとほっとしたが「日本」という超コード化された共同幻想に寒気をおぼえて居ても立っても居られない気持ちになる。恐怖に取り憑かれたら恐怖しか頭の中に生まれなくなるのなんて情けない。これも略して「一身上の都合」だそう。
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