…これって言ってはいけないというか、疑問に思っちゃいけないことだとされてはいると思うんですが、、あえて深堀り(と言っていいのかわからんけど)したい。
例えば、頭のいい人が「朝早く起きて読書を1時間以上している」ということが分かったので、頭がよくなりたい人が「朝早く起きて読書を1時間以上している」のは正しいことだろうか。
正しいと考える人は、ある種の科学を信じている。
AしたらBになるという法則に従って、毎日ノルマをこなすと望ましい結果が得られると思っている。
…すなわち因果関係がそこにはあるはずだと信じているのだ。
しかし、それって本当だろうか?
頭のいいAさんは自分の興味を満たすために、極めて自然な内的な動機で意識せずともいろいろなジャンルの本を読書をしている。その結果、周囲からは頭がよく学者肌な人物だと思われている。
かたや凡人以下のBさんは、Aさんの社会的な評価に憧れており、自分には読書量が足りないせいだと思い込んで世間的に高評価の書籍を取り寄せて1ヶ月に100冊は読むことにしている。この100冊はAさんに話を聞いたところによれば4,50冊の新しい本を読んでいることが逆算できたので、その2倍を読めばいいだろうと考えて決めたらしい。
まあ、Bさんは私を含めた世間一般の人だ。
つまりは、努力を課せば己が望む結果が得られると信じたい人だ。
けれど、どこか危なっかしいというか、なにか脳の働きとして足りてない人のような気もする。
AさんよりもBさんの方が読書量が2倍だとして、Bさんは本当にAさん以上に頭が良くなるだろうか?というサンプルは世間にいくらでもある。
天才と秀才の差と言ってもいいかもしれない。
…いや、秀才になれれば大したものだが、せいぜい「やらないよりマシ」な程度でBさんはAさんの社会的評価を超えるためには相当の努力を要するんじゃね?と私の経験的には思えてしまう。
そう信じたくない人はBさんの経験則よりも教育論的な自己啓発行為の幻想を信じている。
自分や他人を訓練することで一段階のみならず目標へ近づけると信じてやまない。
でも、Aさんをリスペクトして本を読むのならば、Aさんが本を読まざるを得ない内的な動機にフォーカスしてAさん自身を分析したほうがいいし、その内的な動機を後天的に自分にインストールして無意識レベルで読書するような習慣を身につけるにはどうしたらいいのかとか、そういうことを考えたほうが良い結果が得られるのではないだろうか。
まあ、これも結局はある種の科学に過ぎないわけだけど、自分にあったアプローチを見つけ出してそれを適用していく。それで望んだ結果が得られればいいし、望んだ結果が得られないこともあるってだけの話ではある。
客観的に誰が見ても納得する読書量というKPIを満たすように行動し、上手く行かなければ軌道修正する!行動しながら考えることが大切だ!みたいな(笑)嫌いじゃないけど、ある種の精神論じゃねー?やってられません。そういう話をすると、(自称)すごい人は「成功しない人は、なにか理由をつけて辞める」とダメ出ししてくる。
もう、そういうのやめませんか?って同じパターンのカリスマ(自称)すごい人の発言を見つけると、経験的に「あ、またか」と思ってしまう。この何度も心の中で想起してそういう行動「あ、またか」と思う、という行為をする。これがほんとうの意味での習慣では。
習慣って言葉が厄介もので、習(なら)うに慣(な)れるんだよね。習慣っていつから生まれた言葉か分からないけど、実は割と浅いのではないだろうか。習慣に似た言葉に慣習という言葉があるがこれは、社会的文化的なその地域のやり方=ならわしのことだろう。自分を感化する意味合いとは、まったく意味が異なる。
もちろん習慣化したものが良い意味でも悪い意味でも人格を作り出したり能力を引き出したりする側面があることは否定しないし、昨今の自己啓発は心の内面にアプローチするようには進化してはいるけど「そうじゃないんだよな」と思うところが多々ある。
自分でなにかの自己啓発本を真似て言っていても心にひっかかるものがある。ひっかかるものは無視すべきだと思っていたけど、やっぱり自分の場合はひっかかる以上は無視できないし、無視して良い結果は出ないことのほうが多い気がする。
だからあえてそれに気がつくために逆説的に言いたい「習慣は科学ではない」
同様の意味で「習慣は経験ではない」とか「教育は科学ではない」とか「教育は経験ではない」でもいい、言われたほうが「はぁ?」意味わからないと思ってくれれればそれでいい(笑)。たぶんストレートにして意味として分かりやすいのは「習慣は科学ではない」じゃないかな。
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