マインドフルネスのyoutubeを見ていると呼吸を数えたり行動に対してラベリングしたりすることをすすめてくる…それぞれいろいろな人を見ていると…技術体系ベースにどのように言葉を変えて伝えようとしているのか?と分かるようになる。
…ようは客観的に気づきを得る(サティ)がその技術ということに終止する。ちなみに呼吸の数を数えるのは、数息観という方法であってマインドフルネス瞑想そのもののサブセットに過ぎない(と理解している)。最終的には気持ちを落ち着かせる技術なのだが…客観的な自分を自分の脳内に作り上げるプロセスが結局のところ瞑想を行う究極目標にあたるということになるのではないかと思い始めている。他人に押し付けることはしないが単純に日々のストレスを緩和して仕事の生産性を上げるため…という目的は結構なのだけど「脳の変化」を目的に取り組まないといけないと思うのです…なので、個人的にはストレス緩和がマインドフルネス瞑想の目的にはなってはいけないと思います。やはり最終的には「悟り」を意識しないといけないんだと思います。
悟りの過程で現れる内観する目のことを…自分はこの第二の自分っぽい何かを「観照者」と読んでいます。この言葉を初めて知ったのは米国でカルト宗教家扱いされているOSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の書籍を読んだときですが、わりと伝統的にせよそうでないにせよマインドフルネスの科学的成果にせよ…釈迦の悟りにせよ…究極的にはこの「観照者を脳内に完成」させることが瞑想修行の極地なのだと理解しています。
キリスト教ではこの観照者を神と定義していたりするし、アートマン(真我)という老師もいる。言葉の定義は曖昧であるけれど、自分のイメージでは完成された理想的な人物で、感情の塊である苦しみの現況なる自分を包んでいく感じ。
…最終的にそれらが統合されるにせよ2重人格を作っているようなもので最初は少し気が引けるのですが、最終的には1つに安定すると理解している…悟りとはその観照者維持の恒常性が保てる脳内変化を指すのであり、そこに至るプロセスがたくさんあり、正しい方法で瞑想やら修行を続ける必要がある…ということになります。
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