戦いに敗れたら死ぬ。自然界、動物界の理。
されど、現代人はそれを模擬戦と呼び、負けても練習だからと言い訳ができる。
そうして平和な時代とかいう現代で、切磋琢磨する行為なり思想を武道だとか言って、不完全な自分を完全なものにするために不断の努力をする。
ある種の宗教においても、そういうことを尊び、進歩を礼賛したりする…のであるが、どうも言い訳臭いと思うことがある。
少なくとも私が武道だの宗教だの言っている時は内心どこか自分でも胡散臭い気がしてくる。
聖フィリポ・ネリ「神への従順、神のみ旨への謙遜、神以外のすべてのものからの離脱」をするところまで至っていないとも言えるかもしれない。
強者に負けて、そのまま死なせてくれれば、楽なのにな、などと妄想することがある。
終戦の日、そのように「死ぬべき」と思いを持っていた人も多くいた。
これは日本人的な気質なのかもしれない、と思っているが。国家の洗脳だとか言う左翼な人がいても、左翼もまた死を強要するので、どっちもどっちである。右翼とか左翼とか関係なく、外国に似たような諦めの境地がないなら、それは日本人の気質なんだと思うが。ただし、嫌でも軍人にならざるを得ない人は万国にいて、ロシアにもウクライナにもいるわけで(その手のニュース切り取りを見た)、何も「死なばもろとも」は日本人の特権ではなくて、同じ死地に向かわざるを得ぬ立場に置かれた人の決まった思考パターンなのだろう。日本人固有の精神と言いだすと、国粋主義的な香りがするやつだ洗脳されているとか鼻つまみもん扱いされるので、避けたほうがいい。ただ、そういう刷り込みを信じちゃう、自分のような人がいるのは、ある意味で人間の心理にははそういう考え方を受け入れる素地があるということになる。そんなものは「洗脳」と笑うも、人は「自由」だと言い切るのも、なんだか奇妙だな。それを客観視して良い悪いを論じる気が私にはないが、なぜ自分は生きているんだろう?という感覚が現代に生きている私にもあるのは奇妙っちゃ奇妙。この心理作用が無ければ戦争はなくなるかもしれないとも思ったりする。いずれにしても、社会は生者である私を必ずしも必要としていないのに、生きながらえてしまっている。どっかの誰かに生きる意味は自分で考えろと言われ、逡巡してみたところで対して意味はない気がしてきて、考えるのが面倒になると、いっそ死ぬべき時に死んだほうが正しい気がするものである。そういう意味であらゆる自死は怠惰なのかもしれない。怠けるの好きですし。
吉田松陰は高杉晋作に「死して不朽の見込あればいつでも死ぬべし。 生きて大業の見込あらばいつもでも生くべし。」と言った。
大業の見込みなくとも、そもそも生ってなんだっけ?とすら思うのであれば、大業あれば、または、大業ならずとも、なんらかの意味あれば良い気がしてくる。
日本人の幸福度は世界的にもワーストクラスである。絶対無である死が呼んでいるような気すらしてくる。これは気分とかそういうのではなく、自分本位で考えていれば自然とそうなるよなってだけの話をしているだけで是非もない。
ジェシカ・エドワーズ「あなたはどこにいるの?」
言い換えれば、私はどこにいますか?になる。
菅原道大「特攻は戦法ではなく、国家興廃の危機に際する国民の愛国思情の勃発の戦力化である」
竹中平蔵「私はたくさんの老害を見てきた」
おまゆう。
…ま、会社員だろうがフリーランスだろうが、どんな立場にあろうが社会評価の結果が、今の自分の社会的地位や経済状況を表しているとするなら、結果はすべて今の自分の状況に過ぎないわけで、あれこれ言ってみてもしょうがないって話はあります。
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