戯言。日本が弱くなったのは家制度をぶっ壊したから。

徒然草2.0

賭ケグルイを読み終わった。

本家・桃喰家と分家の当主たちの争いの凄まじさと比べると、やはり他の登場人物は薄っぺら気がしてくる。

家の当主として意地を張る。

家という幻想というか信仰みたいなものが、人間の精神を一つ上に上げるために必要なのかも知れない。

武家だと家をつぐものが居らねば家を守るために養子をとるのがふつうだが、これも優秀な人物を主人に据える仕組みと考えれば合理的だ。

また同時に並行して新選組系の創作を読んでいる『燃えよ剣』とか『アサギロ』。試衛館の連中が京へ行って一旗あげようとした。近藤勇と土方歳三は武士階級ではない。「武士になりたかった」という強い志こそが、彼らの行動を支えるアイデンティティだったのではないか…とすれば、やはり日本人には「家制度」が必要なのかもしれない。

戦後、GHQが家制度をぶっ壊したのは、よりリベラルな制度にしたほうが日本国民にとって好いということではなく、やはり日本人の結束力を奪うための取り組みと捉えたほうがいい。

自民党が進める夫婦別姓とかどうでもいいと思っているくらいには政治的リベラルで、保守派の意見はそれとして個人的には否定する立場ではある。しかし、日本人の中には依然、法的な制度が無くとも、血筋とか家と言う無意識の縛りがある。ということに鈍感になって「家制度」を頭から否定するのもどうかと思う。もちろん「家制度」は例えば日本人が幸せになれる制度か?と言われればそれも違うんだけど、そもそも個人の幸せという観点でベストを見つけるのがリベラリズムというか西洋思想だとするならば、それとは違う基準で肯定できる部分がいっぱいある気もしてくる。

…などと言っている時点で私はリベラルでもなければもちろんコンサバでもない。

家制度は、虐げられて損をする側からすると牢獄になり得るがいい意味で諦念であり、秩序を守る側からすると防壁というか根拠である。また家制度は内面的には家庭内の序列だが外面的な家としての他家と区別されるという意味では階級制度と地続きではないか。

日本人は平等思想を受け入れていると言われる。現実問題としてどうか?例えば、インドのカースト制度はどんなにインドが経済発展しても根強く残るというが、日本の場合も制度こそ無いにせよ身分制度に近いカーストは残っている。というより、ある種のカーストというかヒエラルキは、集団化した人に自然発生するシステムであり、制度をとっぱらっても無意識に残り受け継がれる。これらは曖昧にして「存在し無いもの」として扱わないほうがいい。どうせ在るのに見えなくしてどうするの?スクールカーストとか違う基準で顕在するくらいなら最初から天性的な家という基準を設けておいたほうが社会的な秩序として良い意味で多様な気がするけど。

機動戦士ガンダムでもスター・ウォーズでもいいけど、子どものときに見ていて、宇宙に行ってまでジオンの帝国だの貴族だのと古臭い概念この上ないと思ったけど、その捉え方は実は浅はかだったんんだーと大人になってから気がついた。人間は将来どこまで進もうとも、人間が人間である限りはそういう制度にささえられた幻想/信仰が必要なのだ。仮にそういう制度と無意識がなくなったとしたら、たぶん新人類って定義になるし、新人類からすると現代の人も中世の人も名前こそ違えど似たような幻想に縛られているように捉えられるでしょう。

何であるにせよ「不要だとしたうえで除外する」のと「必要だとしたうえで備え付けする」のとではもちろん違うが、よくわからないまま誰かに「除外されたり備え付けられたり」のは最悪で「うまくいくわけがない」それが要不要を判断した経験が無いのだから。賢い人は歴史に学び、愚かな人は経験に学ぶ、という言葉がある。他人の経験と自分の経験と置き換えてもいい気がする。

徒然草2.0
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