戯言。文明否定論者でも左脳を強化し続けないといけない。

徒然草2.0

ああ嫌だ。嫌だねえ。人間の社会とは左脳を使う世界である。人間のルールに沿って生きていかねばならない。左脳を上手く使える人は資産を築くがそうじゃない人は限りなく下に落ちていく。客観的に見ても今いる自分の立ち位置は大したことがない。今のところ超最悪というわけでも最悪というわけでもない。下の中か下の上くらいだろうか。別の人からみたら中か中の上ぐらいだと言ってくれる人がいるかもしれない。そんな基準で人を評価すること自体を嫌う人もいるかもしれないが。。

人間社会は左脳的な認識世界で、他者評価≒自己評価は避けて通れない。が、そういうルールはどうも私は頭っから好きじゃないようだ(?)知識と知恵を持つことはギリシャ社会では市民(自由人)の条件だった。逆つまり奴隷の立場から言えば、知識を持ってうまく使うことが自由人として必要なことであった。でもどうだろう?お金を得るために知識を得てどうにかこうにか私は生きている。お金を得る必要がなければ勉強する必要がない。知識を得てお金を得ることで自由を得ているという実感があまり私には乏しい。自由を手に入れるために知識を得るという言葉は好きなのだけどなあ、どこか破綻しているところもある。労働と知識を習得するこれまた労働を経て結局のところ目先や将来の金のために齷齪と行動し続けている自分にふと気づいちゃったというか。まあただの愚痴なんですが。

哲学が好きだがリベラルアーツをどこかけしからんものだと思っている自分がいる。自由のために知識を頭に詰め込むことは時に不自由である。なんつーか、パラドックスだね。このことについて深く突き詰めて考えた人いないのか。理性の批判という意味ではいっぱいいそうだ。カント以降が、みんなそうかも。ぱっと思いついたのがミシェル・フーコー。

でもリベラルアーツに対して徹底的に頭っから噛みついている人はいない気がする。哲学を転倒させるような人が思いつかない。反哲学は突き詰めれば反知性主義で知的活動ですらない人との区別が付かなくなるかもしれないしな。

…というわけで知の奴隷・左脳の奴隷となって、金をつかみとる尖兵として死ぬまで戦うんだな。それを選び取る自由があるという意味では自由なんかなぁ。謎。

徒然草2.0
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