所詮、日本は大陸の端にある弱小島国。
70年前に人造国家米国に負けた属国に過ぎない。
白洲次郎は「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない」と言った。
…たしかにそうかもしれないが、この言葉を真に受け止めるとなると、白洲次郎だから言えた言葉なのであって、同じ日本人が代返していると受け止めてはならないのではないだろうか。
つまり、このセリフはすでに逆説的である。
正にして、古代ギリシャ時代であれば、我が国と我が国の民は米国の奴隷である。
サンフランシスコ平和条約が発効されて独立したかどうかなど、そんな話はしていない。
しかし、米国の所有物として生きるのではなく、日本人として生きねばらない。
(ここまでは、日本人の多くは同意するだろう)
実質的に米国の属国家である日本人として生きるにあたり、奴隷だとすれば如何に生きればいいのだろうか?
米国の洗脳ならびに高度経済成長の豊かさにより、我が国民は奴隷であることを忘れてしまったのではないか。
(このへんから、「おまえは何を言っているんだ?」と思う人が増えてくるだろう)
豊かさにかまけて豚であることすら自覚できていないのではないか。もとより私たちは豚なのである。
(我が国には独自の高度な文化がある!とか言って怒り出す人が出てくる!)
でも、豚なのだ。奴隷なのだ。
話は紙面の都合により(というか面倒くさくなってきたので)話は飛躍するが、ここで選べる選択肢は2つしかない。
奴隷のままで行くか、奴隷を脱却するかだ。
多くのものは奴隷を選ぶが、奴隷を脱却しようとする精神を持って行動するか。
そして、奴隷を脱却する方法は大きく分けて2つあるのではないか?と私は思う。
「日本の独自性を追求するか?」or「米国もしくは米国を凌駕する第三国の力を利用するか?」
…である。
例えば、戦後レジームの脱却を訴えて、戦後押し付けられた(ことが事実かそうでないかはともかく)自主憲法を制定しようという意志は、後者の手段「日本の独自性を追求する」になる。
ここに力を注ぐことは正しいのだろうか?国家がどう国際社会と向き合うかとか、国内の権力者から国民の権利を如何に守るかとか、そういう意味では非常に重要かもしれないが。個人的にはどうでもいい。舞の海秀平は日本の横綱が生まれないのは日本国憲法のせいだというようなことを言っているらしいが、そんなわけあるか。
日本の独自性を追求する手段のみをとる道ももちろんあるのだが。
結論から言ってしまえば実際問題、戦後も戦前も変わらないし、2つに分ける必要もなくて2つの方法を選べばいいのだが…外部環境を絶妙に取り込んで「進化」することが望ましい。
…ようは、「日本の独自性を追求する」「米国もしくは米国を凌駕する第三国の力を利用する」この両方をハイブリッドで取り込んで行く必要がある。これがプリンシパルな取り組みだ。ただ日本の独自性追求全振り型は芸術家だったらアリかもしれないが、普通の人にはバランスが悪い。だったらあえて日本人性を捨て後者へと傾斜配分すべきだろう。つか日本に住んでいれば致し方なしいくらか日本に染まるので基本的に異文化へ極フリで構わない。
…より簡単に具体的かつ俗に言えば「欧米文化に染まる」とか「中国語を勉強する」とかする必要があるよね、ということ。(って言っちゃうと安っぽいけど、まあそういうこと)
どうも私たちは最初に言った通り、豚にされて豚になったのだ。豚の自覚を持ち、豚からの脱却を目指すのが、人間の精神が持つ自由意志だろう。
(であるとすれば、いま豚であることに腹を立てる必要はなく、ただ豚は豚でない生き物に変わる”進化”するためのアクションをとっていかねばならないとしたら?どうしたらいいのか、自ずと道が見えてくるのではないだろうか?)
てな感じで最近じぶんが英語を学ぶ意義をひねり出そうとしています(大げさ?)
コメント