寿命は平等ではない…って話をすると、生まれた時に死んでしまう人もいれば100歳まで生きる人もいる、という意味にとらえられがちだと思う。
いや、そういう話ではなくて…
そもそも世間では80から90歳まで生きる前提で私達は生かされているけど、それって感覚的に「違くね?」と40近くになって思う。
人生100年時代とかいうフレーズを聞くと寒気がする、大げさにとらえ過ぎていると思う。織田信長の敦盛では「人間五十年」とうたわれている通り、人間の寿命はやっぱりそのくらいで考えていないといけない。
厚生年金の発足当時、年金が支給される年齢は55歳だったそう。今では65歳で70歳とか下手したら75歳からになるのも時間の問題。長生きするんだから当然?
うーん違和感がある。
私の左肩は…四十肩で左腕が完全にいかれちゃいましたけど、武士なら刀を振れないし、百姓でも桑を振れません。職業人として終わってしまった。日常生活でも支障をきたしている。今はかろうじて事務的な仕事をしているが、それも時間の問題な気がしている。健康なんて保たれているのは奇跡なのに「健康な毎日がいい」みたいなの全面的に押し出すの「どうなの?」ワタシ的には知らんよって感じなのですが。別に嫉妬しているとかじゃなくて、「寿命は平等じゃない」ことをもっと噛み締めて生きるべきなんじゃね?って思うので、傍から見ているとバカバカしい気がしてくる。別に健康であることを馬鹿にしているつもりじゃない。ただなんで「寿命は平等じゃない」ことを無視するんだろう。この記事でいいたかったのはそれだけだ。ただ、中途半端な感じなのでまだ何か書いてみよう。
そんなこんなで私はあと10年くらい仕事ができればいいでしょうと思っている。…で、そうも言っていられないから、命続く限りガンバルってことになるのだろうけど、で順当に行ったら80歳まで生きてしまう。精神面ではもういっぱいいっぱいなのにだ。
若い頃のがんばりで今惰性でできるとか言う人もいるけど、ちょっとちがう気がする。だから、若い頃からがんばりなはれと若い人には言う気が起きない。老人になったらつまらんとか言う老人も無意味だと思う。ただ沈黙を守りたい。
20代後半で人生が決まって、あとは惰性だとか言っている人がいた。その感覚はだいたいうなづける。人生のターニングポイントは色々あるが最後は「結婚」で「結婚」したら後は選択の余地はあまりない。なるようになるだけ。お金のためにできる仕事をして、あとは墓に入るだけ。
人はやったらやっただけ、一定の成果は出せるものだが、別に若い頃から積み重ね続けることが大切だといい切るほど、自分の中に資産になるような蓄積はない気がする。何もやってこないよりは何か知識があるから人並みかそれ以下の「やったらやっただけの一定の成果」はある分野もあるのだろうけれど、別にそれは仕事をしていなくても積み上げられることだし、なんなら別に今からでも積み上げていけるもの。ただ40代だと「何かできて当たり前」にされているし、新しく学ぶことがしにくい環境にあるというだけ。まあ、意識が若ければ何でもできるという気もなくて、歳をとると身につきにくくなるのは確かなことだから、やっぱり月並みな言い方になるけど、「若いうちに学んでおけ」になるのかなという気がする。
ちょっと話がずれた。人間の社会体な人間の寿命は、戦国時代と変わらず「50年」で変わっていない。武士だったら10代で元服(成人)20代前後で家を継ぐ。30代で仕事に油が乗る。40代で隠居。50代で死亡。まあ、戦国時代でも武士や僧が多いだろうけど80や90まで生きる人はいたが。
公衆衛生が充実してそれが国民全体に行き渡った。50歳から80歳までの空白の30年が発生した。それは基本的にいいことなのだろうか?
歳をとると、人生が楽しくなると言っている人がいるが、信じられない生きる意味を見つけるのがこの時期だという人もいるが、信じられない。終わる寿命が終わらずして悟りが開くなんてなんかおかしくね。老化によってそのような精神作用が生じるのならば、人間の脳内メカニズムにあらかじめ組み込まれているんじゃね。老いることに消極的でもなければ、老いることに積極的でもない。他人の場合は知らないけど終わるまで、たぶん生きる意味がないだって空白の30年なんだものとかつぶやいて、ずっと悩み続けるのか。
人生の物理時間が無駄に30時間伸びてしまった。どのように時間を潰すべきか?という観点でその事実をポジティブに受け入れる人はいるけど、ネガティブに考察しているひとってあんまいない気がして書いてみた。なんでだろう?第三者が「孤独な老人だ」みたいに指さしてくることはあっても、本人の口から吐露されることない気がするのなんでだろう?うーん、わからない。
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