戯言。好きなのは変化。嫌いなものは不変。

徒然草2.0

鬼舞辻無惨「嫌いなのは変化。好きなものは不変」

変化に対応するために私達は柔軟に思考や肉体を変化させて、良くも悪くも今自分がいる環境に合わせようとするものです…しかし、それは心身にストレスを生じさせることであって、一定のしきい値を越えてしまうと壊れてしまうことがある。…それはそれで1つの事実として受け止めて、長期的に見ればその環境で花が咲かないなら、違う環境で花を咲かせる努力をすればいいと思う。けれども過去を捨てるというのは人間誰しも難しいものだし、回復しないダメージを負う人もいる。永遠に変わらないことを望む人もいる。不変を望むのであれば徹底して変化を避けて生きることもできる。それは尊重したいと言うか…普通なことだと思う。また不変であってほしいという願望は誰しもあるのかもしれない。例えば…

永遠の愛情とか、永遠の生命とか。神。絶対善。無。イデア。真理。100%。正義。

…ふと客観的に自分の人生短いと振り返ることを10代や20代でも私達は行う。(むしろ、年齢を重ねるとどうでもよくなってくるものなのかもしれませんが…)人生のろうそくが消えかかっているくらい年を重ねると、いつ死んでもおかしくないという自覚はあるようで老人の会話なんかを聞いているとその手の話が出てきますが、でもなんだかはためにはとても落ち着いているように見える。自分も人生の半分が終わったなーという年齢になってきたけど、何にも感慨深いものがないというか、あと10年でも5年でも…最悪1年や3ヶ月でもしょうがないかなと…さすがにあと1ヶ月と言われると…いらないもの捨ててゆっくりする時間もないな、と思うけど。死によって中断されることはうすうす感じながら、心のどこかでまだ「終わらないだろう」と油断しているという見かたもできる。いつか終わることにせかせかするのはなんだかかっこ悪いと私達は思っているのかもしれない。ただ、ポジティブにとらえれば、変化していくものに心とらわれず(とらえたところで何もデキないからですが)生きていくことができるようになってく。と言えなくもない。

常に周囲は変化するものだ…むしろ変わらないものなどない…これが仏教における無ではないでしょうか。

ところが、変化しないほうがいいという思想を持つ人もいる。

あまり民族的文化を語るのは好きではありませんが、日本人はわりと保守的なようで変化を好むないしは変化の中でこそわりと能力を発揮することができるタイプの文化なのだと思うところがある(思うところがあるというのは各論で、総論を言えば日本人は保守的であるが)…島国根性という意味では変化のない保守的な辺境国という見かたが一般的なのかもしれませんが、逆に緩やかな変化のなかで少しずつ変化するということを良しとしている気がします。逆にキリスト教などはプロテスタントが資本主義を作った(でいいのか?)わけですが、その一方で人間の一生には必ず一種の変化が必要でえば「成長」とか「発展」とか「啓発」とか「開拓」とか天地開闢ーとか…、おおよそそういうものは”変化”のポジティブな表現で世間にも望む。しかし、キリスト教において個人の終わりは天国で永遠の時を過ごすわけです。人生という有限時間内の成長を担保に死後に魂を永遠に不変化するという意味では…どっちもどっちな気がします。

この手の民族論は日本がイケイケの時は良いように解釈されるしダメダメの時は汚点として解釈されるわけでかなり書いている人の都合によると思う。人はもっともらしい美談が好きなのだ。美談しか話にならないものである。

さて、長々とかなり適当に言いましたがわたしがここまでで言いたいことは1つ。

人は「変化を望む部分と望まない部分がある」これだけです。変化を望むものが変化すると良い判定、変化を望まないものが変化すると悪い判定、それぞれ下している。

変化を望む部分と望まない部分の取捨選択を作業を日々しながら、自分の人生をもっともよいものにしていく行動をとるのが、人間ということでしかない。ということがわかると、人間なんか大差なく今時分が何を望んでいて何を望んでいないのかが分かってくるのではないでしょうか。

別に嫌いなものを好きになる必要はなく、事実としてそうあるものの扱いに気をつけていく。事象ではなく事象そのものから事象を選んでいくと、おおよそ似たりよったりなので、その中から好むものを掬い上げて啜って生きていければいい。バベルの塔を建てる人について行きたいのならば、そうすればいい。後から昇るよりは高いところでお天道様を拝めるかもしれない。

徒然草2.0
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