思い上がるというのは、例えば、自分に能力があり、他人よりも優れている…ということだと思う。
これは善いか悪いかでいえば、悪いことだと考える人がほとんどだろう。
ただ、助けを求められて「助けよう」という行いは善行だが、人をなんとか助けようと「思い上がる」こともある。
できないことをできると言い、ドツボにはまることもあるのではないか。
人を助けるにしても、自分ができる範囲の小さいことにとどめること。
あとは神様が導いてくれると祈ればいい。
…なんだか、助けてあげようという気持ちを否定されると、少なからず誰でも持っているヒロイックな感情を逆なでされた気分になるのですが。自分を犠牲にしてでも人を助けるなんて少年漫画でよくある描写ですし。でも、キリスト教のとある冊子には上記のように振る舞うことと書いてある。私としては、ちょっと突き放す感じにも思えるのですが、これが宗教における1つの回答。大人の振る舞いとして、また自分の身をまもる最善の努力というのか分かりませんが、一人の弱い人間ができる最善手であることもまた確か。後は神様がどうにかしてくれるという他力本願こそ信仰。残念だとか無力だと思うことはない。いずれにせよ、自分の力を見誤り思い上がるのはよくない。昔読んだ何かの本に(何だったのか忘れたのだが)「人の教師になるな」と書いてあった。論語かなぁ。これも自分には知識があるという思い上がりを諌めるための教訓だろう。
…ここまでのことは理解はできるけど、やっぱりどこかひっかかるところが残る。
「人に役に立つという思い上がり」間違っていないか常に点検が必要だ。
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