えーと、狂人ニーチェではなく超人ニーチェの間違いでした。どっちでもいいか。
ジョン・ステュアート・ミルの名言と言われている「満足な豚より、不満足なソクラテスになりたい」という言葉は、質的功利主義というものに対する批判に対してウィットを効かせて反論を言わせぬようにしたそうです。批判したら満足なブタだねと言われる仕様の罠であるということ。
でも、ミルにせよ、ミルより前に量的功利主義を唱えたベンサムにせよ、幸福なんてひとそれぞれだし、ものさし(基準)つくって計測するなんて不可能じゃん -完-
…で、話が終わらせられる人気薄の功利主義ですが、けっこうこの言葉は奥が深いのではないか。
というのも、単純に知性というか真理を探求したソクラテスをリスペクトした比喩でありながら、かなり尖った(批判されている方をブタ呼ばわりする)言い方ですし表題の通りでいくらでも言葉遊びができそうだ。
哲学者や思想家を自分の推しにするのは思想家はともかく哲学者からしたら不本意なことかもしれない。哲学することそのものではなくて哲学者推し活の対象にさせられているのだから溜まったものではない気がする。
それに、言葉遊びの挙げ句に肉付けして何某か考えたところで、それ以上のものは生まれなさそう。
いずれにしても、幸福が決まる価値感にせよ多様性(?)の時代に複数の見方がある気がします。といま風に言っておきますが、投げやりに言えば「各々好きな言い方をすればいいのでは?」という気がします。
人間はただ生きて子どもを生むなりしてから老いて死ぬだけの存在ですが、それが当たり前ではなくなる時代というのはやはり不幸では?と思いますし、そうしてこだわりをもち考えすぎて狂うのは正常なやつよりいくらかマシなんじゃないか?というふうにうそぶいておく。
今日も毒杯を飲もう。(コーヒーにはカフェインという毒物が入っている)
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