自分勝手に生きることが人生のテーマになっている人がいる。私も他の人も例外ではなく…私だけは例外だというつもりもない。
その一方、それだと虚しい感じがして、他人のために生きることが自分のためになると考える人も中にはいる。自身の被災地などに多額の寄付金などが集まるのは(欧米の宗教文化がある地域よりも相対的に少ないかもしれないが)他人のために身銭を切る精神の現れでは。だけど、この利己主義と利他主義と2言論はとても危うい気がしている。
…なぜなら、基準は人それぞれ。他人のためにやっているという行為が、さほど対象の他人のためになっていないことがある。基準が曖昧だし、やっていることはすべて基準もなく肯定される。利他主義は利己主義の裏でしかない。他人のために生きていると考えて得意になる人もいるが、それは美しくない。やらないよりやる偽善という言葉はたしかにそうだが、具体的な言及は避けるが「危うい利他主義者」が存在する。また、利他主義者は利己主義者に変わる可能性もある。自分の傷が誰かのためになっているという実感が伴わなくなると、利他主義者は簡単に利己主義者に寝返ってしまう。利他主義者だと思っていた人が、後からそうじゃなかったと気づくことはままある。逆に利己主義者が利他主義者へ変わった例をあまり知らない。(自己啓発的な昔話にありそうなストーリだが、)
ただ、コロナ・パンデミックの時に医療崩壊を食い止めるため、ワクチンが有効だと言われていたがその一方でリスクが大きいことも承知して積極的に注射をしている人もいたと思う。基本的には自分のためではあるが、社会のため(医療崩壊を防ぐため)という理由でワクチンを打っていた人もいたはずである。
ジャック・アタリは以下のように述べている。
パンデミックが起きたとき「今は利己主義と利他主義の戦いだ」という記事を書きました。利己主義とは誰かが自分の面倒を見ることです。利他主義とは「他人が幸福であるかどうか」に関心を持つことです。パンデミックでは、ワクチンを接種することで他人を保護することに、私達が関心を持っていること、つまり利他主義の重要性を理解していることが示されました。『2035年の世界地図』ジャック・アタリ
自分が救われるから他人を救えという話は条件付きで実効性が薄いし逆のことを言われた時に何も言い返せなくなる。つまりは「他人が不幸になっても自分が幸せなら構わない」という人に投げかける言葉はない。その場で相手にひどい仕打ちをして暴力で説得するという野蛮な方法以外に改心させる可能性のある手段があるとすれば何か?もうひとつ可能性があるとすれば「美学」があれば乗り越えられそうだと考えている。あとは美学に近いものがある自分なりの「正義」を持つことだが、これを自らのみならず他人に要請するのは(養成するのは)とても難しい。
あと余談だが、ジャック・アタリはAIが発達したら計算ができることよりも他者の理解に力をいれるべきみたいなことを言っているが、これは違うよな。計算の基礎能力がない人間と論理的な話はできないよ。子どもにさせるべき教育はChat-GPTが簡単にできる基礎学力すなわち読み書き算盤なのは今も昔も変わらない。ケーキを切れない非行少年じゃないけど、ユークリッド幾何学が分からない人と会話は成立しない。
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